周年パーティーで創業メンバーの等身大パネルを準備しました!
~👇前回からの続き~
【Challenge & Expand】
我が家の庭に工場が来た
仕事量も徐々に増え、社員さんも増えることで、工場(コウバと呼んでいた)も手狭になります。そこで移転を検討するのですが、そのような用地も十分な資金もありません。当時はまだ信用もないので銀行もお金を貸してはくれませんでした。そこで取った手段が、1~2年前に新築した自宅の庭に工場を建てる、というものです。自宅を新築した当時、幼稚園だった私(森﨑准一)は工場に隣接した狭くて古い借家から芝生の庭のある家に引っ越したことを、今でも鮮明に覚えています。とてもうれしかった想い出ですが、それも一瞬の間だけで、その後すぐに庭に工場が建てられました。おかげさまでその後も順調に業績を伸ばすことができ、3回の移転を経て今に至りますが、そのたびにいろいろな出来事や苦労があったようです。
大勝負
昔の木型屋は儲かったそうです。ちょっとした設備があれば木型を作ることができたので、腕と覚悟さえあれば独立も可能で、仕事さえもらえればいい暮らしはできたようです。腕一本、まさに一人親方の職人ですね。昭和30年代後半から40年代初め、各地で独立開業が相次ぎます。今もなお東京の下町や東大阪地区に個人規模の木型屋が多いのはこの名残です。
一方、業界にも時代の波が押し寄せ、機械化が浸透し始めます。レーザーをはじめとする様々な機械が世に出てくるのですが、これまでの設備と比較にならないくらい高額なもので、導入には相当の覚悟が必要だったようです。このまま腕一本で勝負するのか…、思い切って最新の設備を導入するのか…、多くの木型屋は腕一本で勝負する方を選択し、しばらくは高収益の恩恵を与ります。ちょうどその頃、業績を順調に伸ばすことで銀行からの信用も得ることができました。やっと借入ができるようになったモリサキは、リスクをとる道を選択し工場拡張、そして設備投資へと舵を切ります。当時は返済金に加え高額な利息がありましたので、一気に財務状況が悪化してしまいました。数年間赤字続きとなったこの頃が一番きつかったと会長夫人は回想します。それでもこの危機をなんとか乗り切ったのは、脂ののった40代の創業メンバーを中心とする先輩たちでした。またその際、たくさんの方々からの支えもありました。それから30年後の今、木型業界にも企業淘汰の嵐が吹き荒れ、私たちは業界再編の真っ只中にいます。
挑戦心と開拓魂
創業からしばらくは紙器専門の木型屋でした。
飲み会やらソフトボール大会やらお客さんとの交流も盛んで、その公私にわたるお付き合いも後押しすることで、とても深い信頼関係にあったのではないでしょうか。頑張れば頑張るほど業績も上がり、国中が活気に満ち溢れていた頃です。
一方で、時代が進むにつれて、モリサキの周りでもいろいろな変化が加速度的に訪れはじめます。不景気や同業他社参入による競争激化、技術転換に伴う生産方式の変化など不安要素は様々です。これまで業績を伸ばしてきたものの、将来への安定性は十分なものではありませんでした。「紙器以外の分野に参入する」、これは考え得る打開策のひとつでした。その後、新たな挑戦を決めたモリサキは、そこから行動に移すことで新しい分野への参入を増やしていきました。インターネット検索などなかった当時、マンパワーだけで開拓を行ってきた先輩方の知恵と行動力には驚くばかりです。新しい分野への挑戦、リスク分散の側面から見てみると、その恩恵を授かっているのは、今、様々な変化に直面している私たちではないでしょうか。ちなみに、いろいろな分野への木型に対応できる木型屋は、国内では珍しいのだそうです。
いかがだったでしょうか?
昭和から平成にかけてのわが社の歩みを紹介してみました。
地方の、それもたかだか50人規模の小さな町工場でも様々なドラマがあったようです。
昭和から平成を経て令和となった今、変わってしまった価値観もあるでしょう。
それでもわたしたちの会社のルーツだったりバックボーンを知る、そして伝えていくことは、とても大切
だと考えます。 また、その中に絶対に変えてはいけない不変のものがあるように思えてなりません。
モリサキは次の50年をキャンバスに描いてくれる仲間を募集しています!