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【#4】なぜ重度障がい者の私が起業したのか?(はじめての社会との関わり編)


外と関わる。決断。

友人たちと出かけた後は、虚しい日常が私には待っていた。外出をきっかけに、なんとなくだけれど、何か行動を起こさなければ、ずっと母や家族といることになる。母や家族から脱出できないことは、なんとなく分かっていた。が、さらにそれが腑に落ちていくようになる。

とは言え、母には毎日迷惑かけているし、私に付きっきりなため、見たくもない現実を見ながら、私のケアも行う。そのため仕事もできない。それは収入も得られないことも、意味していた。このまま貯金を食いつぶして行くだけの生活は、将来に不幸が待っている気がしてならない。

母親もできるだけ、気を紛らして欲しいし、経済的な収入も得て欲しかった。そこで私は、前々から誘われてはいたが、気乗りしていなかったデイサービスに行くことを決断していた。バスでお迎えに来てくれて、お風呂入って、食事して、レクレーションをして帰ってくる。そんな、幼稚園生みたいなことは、ずっとやりたくないと思っていたし、抵抗があった。が、週1回でも母を楽にさせてあげたい。私から解放させてあげたい。母と距離を取れたら、何かが変わるのではないか?という期待を持って私は、デイサービスに通い始めた。

最初は、やはり慣れないこともあり、わざわざバスでお迎えが来て、お風呂に入って、ご飯を食べることに意味があるとは、なかなか思えなかった。けれど、家ではお風呂が入れなかったので、訪問入浴のみ月4回の入浴しかできない。しかもバスタブでお湯はチョロチョロだったのが、デイサービスのお風呂の大きさはすごく大きくて、お湯の量もかなり多かったのですごく気持ちよく入れて、ものすごい爽快感を得ることができた。スタッフさんたちも笑顔で優しく接してくれる。

食事も家の物だけでなく、人様が作ったものを食べれるのは、今の私にとっては貴重な機会であり、ごくごく当たり前のことに変化があることに、本当に幼稚園児みたいなところに来てしまったんだなと言う思いに苛まれるけれども、現実は家でお風呂も入れない自分が、大きなお風呂で入れること。家でしか食べれないご飯を外で食べられること。はかけがえのない貴重な体験であった。

私の居場所はここしかない?

初めて行く、幼稚園生に戻ったようなデイサービス。しかもそのデイサービスは、今と違って障がい者に特化したものではなく、高齢者の中に、ついでに障がい者もう入れてもらうデイサービスでした。

それでも週一回にしっかりしたお風呂に入れて、普段とは違う食事が取れて、家族以外の人々とコミュニケーションがとれる。スタッフさんでも利用者さんの高齢者の方々との関わりは、どれもが人生初めての体験で、何ともそれが新鮮でした。

利用者の中には、以前地元でお会いした若い同世代の車椅子ユーザーの方もいるし、スタッフの方の中にも若い方がいる。そういう同世代との触れ合いは、今までの受傷後の人生から見てもかなり刺激となった。また、福祉職の方々が誰が明るく楽しく接して過ごしてくれるのを見て、ああこういう人たちが関わってくれるなら、少し安心したな。救われた気がした。

でも、高齢者の方々のカラオケお隣で聞くのは、まだまだ苦しい部分があり、お決まりの北島三郎さんを始め、北国の春など演歌の王道の曲が毎回ひっきりなしに流れ、どんどん演歌に詳しくなる自分が、なんとなく抵抗ももあったが、 久しぶりに麻雀ができたり、とてもそれは新鮮で楽しい時間でした。

また、フリー時間に読書を始めるなど、なんとなく、ただテレビに逃げるだけの生活からは、変化があった。今から見れば、この誰でもいいので社会との接点を持つことが、自分の中で変化の初動と兆しだった気がする。それは、自分に行くところがこういうところしかないという事実を知ることになったことも大きな現実と成果だった。

でも結局やることもないので、デイサービスの休憩中にタバコを吸ってみるなど、紛らわすことが若干増えた気がします。あ、ちなみに今は十数年前から、タバコは一切吸っていませんのでご安心を(笑)むしろ拒絶が出るほど大嫌いですwww

新しいともだち。

週1回のデイサービスだが、外の世界に触れ、ある意味現実を思い知った。私は外に出れば、希望ある未来が待っていると思い込んでいた。外の世界と関われば、今が良くなる。変化して道が開けるとちょっと期待していたのだ。母親から離れた世界が広がると、少し希望をもって期待して決断したが、私の望んでいる世界はそこになかった。

この時ちょっと悟ったたかもしれない。ああ、自分はこの福祉という施し受け続ける人生。社会の普通のレールから外れた。違うレールの敷かれた人生を生きていくんだ。これを打ち破るには、とても現実的にイメージできない、何か奇抜で大きなことを成し遂げなければいけないのだろう。頭のどっかでそう考えるようになったかもしれない。

だが、そのことを真正面から認識し、立ち向かう勇気には私にはなかった。母への貢献として、週1回デイサービスに通い、今まで人とコミュニケーションがなかった人たちと交流を深め、社会との接点がこれでもできたのだからいいのではないか。自分は良く行動した。素晴らしいではないかと。と自分に言い聞かせ、だが、心は虚しく、苛立ちは隠せず、満たされず、日々をごまかして毎日が始まった。

その環境おかげで、本当に何か藁をも掴む気持ちで、同世代のいる世界に私は求めていた。違う何かを私は貪欲に求めていた。内面にグツグツと蠢く感情が、私の中で悍しく襲いかかってくる。だが、その反逆的な感情が私を貪欲にさせてくれてくれるような気がしていた。

その時、県立のリハビリテーションセンターで教わったパソコンを思い出した。思い切って購入した。当時はブラウン管だったモニタ。地元の電気屋でパソコンを購入して、インターネット回線、当時 ISDNを引いて、『テレビ、デイサービス、訪問看護、ご飯』のルーティン生活に新たにパソコンという友達が加わった。

最強の現実逃避アイテム

新しいともだち『パソコン』を手に入れた私は、最初はおっかなびっくり。慣れないこともたくさんあったが、次第に「恋人か!?」というぐらいのめり込んでいった。リアルな世界では、何をするのにも人の手を借りなければ、何をできない私。母や家族に声をかけなければ、お水ひとつ飲めなかった。

だが、ブラウン管の中に入り込み、没頭して、パソコンをやっている最中は、自分で棒を咥えながらではあるが、マウスポインタの矢印を操作できることができた。それは、初めて何かをしたいと思った時に、人に声をかけなくて良いという体験が待っていた。

何かを調べたいと思ったら、検索キーワードを打てば、その情報が手に入る。テレビは「チャンネルを変えて欲しい」と言わなければ、チャンネルは変わらない。これによって、母や家族と関わる時間が格段に少なくなり、自分である程度「暇つぶし」という現実逃避ができるようになった。

昔はキーボードも大きかったので、パソコンをセッティングするテーブルをつくる日曜大工もできる人がおらず、膝にクッションを置いて、その上にキーボードを置いて、棒を咥えてひたすらパソコンをする。という日常が始まった。

なので、一度セッティングするとテレビに逃げていた時間がパソコンにシフトしていった。人に声をかけるのは、嫌なので休憩もろくにせず、ずっとパソコンと向かい合うようになった。もっと現実逃避は加速していった。多い時は、1回5~7時間は当たり前だった。1日12時間ぐらいはずっとパソコンで現実逃避に精を出していた(笑)

だけど、そこには自分で何かできる。喜びは実はなかった。ただ、気が紛れるの質が高くなっただけだった。作業に集中する。という心地よさは、何か趣味を持つような、熱中できるものがあることは、とてもその時の私には現実から逃げる救世主となった。

【#5】へ続く…

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