営業所の倉庫の奥に、
古い自転車が一台だけ残っていた。
錆びたチェーン。少し歪んだハンドル。
誰も乗らなくなって、ただ置かれているだけの自転車。
その自転車には、白いタグが結びつけられていた。
「整備済み。安全に走れる。」
短い文字が、かすれたインクで残っていた。
誰が書いたのかは分からない。
いつ書かれたのかも分からない。
ただ、その文字は、急いで書いたものではなく、
丁寧に、ゆっくりと書かれていた。
営業所の先輩が、ふとその自転車を見て言った。
「これは、最後まで整備していた人がいたんだよ。」
その人は、病気で長く働けなくなっていた。
それでも、最後の日まで倉庫に来て、
その自転車だけを整備して帰ったという。
「誰かが乗るかもしれないから」
そう言って、ブレーキを調整し、
チェーンに油を差し、
ライトを交換した。
もう自分は乗れないのに。
もう自分は営業に出られないのに。
それでも、その人は最後まで整備を続けた。
タグの文字は、
その人が残した“最後の灯り”だった。
「安全に走れる」
その一言に、
どれだけの思いが込められていたのか。
営業所の静けさの中で、
その自転車だけが、
まるで温度を持っているように感じた。
誰も乗らなくてもいい。
誰も気づかなくてもいい。
でも、確かにそこには、
誰かの“最後の優しさ”が残っていた。
その優しさは、
時間が経っても消えずに、
静かに、確かに、そこにあった。