営業所の倉庫の奥に、
古いファイルがひとつだけ残っていた。
色あせた表紙。
角が少し折れている。
誰が使っていたのかも分からない。
ただ、そこに“ずっと”置かれていた。
何気なく開くと、
整備記録が並んでいた。
日付と、車種と、簡単なメモ。
その中に、
一枚だけ文字の雰囲気が違うページがあった。
「タイヤ交換完了。
これで、あの子はまた安全に走れる。」
“あの子”という言葉が、
妙に胸に引っかかった。
ページをめくると、
同じ筆跡の記録が続いていた。
「ブレーキ調整。
少し固かったけど、もう大丈夫。」
「チェーン清掃。
汚れが多かった。
きっと毎日頑張って走ってるんだろう。」
「ライト交換。
暗い道でも安心して帰れますように。」
整備記録なのに、
どれも“誰か”を思って書かれていた。
最後のページだけ、
少しだけ紙が波打っていた。
水に濡れたような跡があった。
そこには、
短い一文だけが書かれていた。
「もう会えないけれど、
この自転車が守ってくれますように。」
その文字を見た瞬間、
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
誰が書いたのか分からない。
誰のための整備だったのかも分からない。
でも、
その人は確かに“誰か”を守ろうとしていた。
自転車を整備する手は、
ただの作業じゃなかった。
ただの点検じゃなかった。
その人にとっては、
その自転車が“最後に触れられる大切なもの”だったのかもしれない。
倉庫の静けさの中で、
古いファイルだけが、
まるで温度を持っているように感じた。
ページを閉じるとき、
指先が少し震えた。
帰り道、
営業車の窓から見える景色はいつもと同じだった。
でも、胸の奥だけは違っていた。
「誰かのために残された仕事が、
こんなにも静かで、
こんなにも強いものだったなんて。」
涙がひとつ落ちた。
理由は説明できない。
ただ、
その整備記録が、
誰かの“最後の優しさ”だったことだけは分かった。
そして、
その優しさは、
時間が経っても消えずに残っていた。