彼は、営業として働き始めて三年が過ぎていた。
派手な成果を出すタイプではなかったが、どんな店にも必ず顔を出し、
どんな小さな相談にも耳を傾ける、そんな人だった。
ある店に、彼が特に気にかけている整備士がいた。
年齢はもう60を過ぎていて、手は油で黒く染まり、
声はいつも少し掠れていた。
「最近は若い子が自転車を触らなくてね」
そう言いながらも、整備士は毎朝、店の奥の作業台に立った。
ある日、彼が訪ねると、整備士はいつものように笑って迎えた。
ただ、その日は少しだけ、笑顔が弱かった。
「来月で店を閉めることにしたんだ」
整備士は、作業台の上に置かれた古い整備ノートを見つめながら言った。
彼は言葉が出なかった。
整備士は続けた。
「体がね、前みたいに動かないんだよ。
それに、店を継ぐ人もいないしね。
仕方ないよなぁ」
整備士は笑った。
その笑顔が、どうしようもなく寂しかった。
帰り際、整備士は彼に一冊のノートを差し出した。
表紙は油で黒く汚れ、角は擦り切れていた。
「これね、店を始めた頃からずっと書いてきた整備ノートなんだ。
どの自転車がどんな音を立てて、どこが弱くて、
どう直したらいいか全部書いてある。
君はね、ただ営業に来てるんじゃない。
店を、街を、ちゃんと見てくれてる。
だから、持っててほしいんだ」
彼は受け取れなかった。
「そんな、大事なもの……僕なんかが」
整備士は首を振った。
「君はね、誰よりも店のことを考えてくれる。
そういう人に持っててほしいんだよ」
その瞬間、彼は堪えきれずに涙がこぼれた。
整備士はゆっくりと彼の肩を叩いた。
「泣くなよ。
君が来てくれる日は、店を続けてて良かったって思えたんだ。
ありがとうな」
翌月、店は静かに閉店した。
シャッターには「長い間ありがとうございました」とだけ書かれた紙が貼られていた。
彼はその前に立ち、整備ノートを開いた。
ページの端は油で黒く染まり、文字はところどころ滲んでいた。
でも、その文字は、整備士が半世紀かけて積み重ねた“誰かの生活を支える技術”だった。
その日、彼は決めた。
「自転車のある生活を支える仕事を、もっとちゃんとやろう」
誰かの生活を支えるということの重さを、初めて本当の意味で理解したからだ。
整備ノートは今も彼のデスクに置いてある。
古くて、汚れていて、もう使えるものではない。
でも、彼にとっては何よりも大切な“仕事を続ける理由”になっている。