自分事ですが、家業に入ってもうすぐ3年が経ちます。元々はただのサラリーマンでマネージャー職すらやったことない自分が実経者として3年間旗振りをしてきたわけなのですが、振り返ってみると日々ぶつかり稽古で経営者ごっこ的になってしまっていた場面がたくさんありました。フラットな組織にしたいとぼんやりとした理想を持ちながらも、実際にやってきたことは完璧を求めた権力行使による命令だったりしたこともあり、スタッフのみんなを混乱させてしまったことも多かったなと反省するわけなのですが、とはいえ3年間経って自分なりの経営観というものも醸成されてきたように感じるので、今回はそんな自分の過去を省みながら、経営者としての自分の在り方に対する考えがどのように変化していったのかを書いていこうと思います。
「自分が言わなければ会社が潰れてしまう」という強迫観念
家業に入る前は、一般的な製造業の事業承継プロトコルの通り、現場→営業→CG→取締役といった順で段階的に業務を覚えていく予定でした。しかし実際は、ハード面でもソフト面でもテコ入れ待ったなしの状況で、家業に入って1カ月も経たないうちにこのプロセスの通りにのんびりしている余裕がないことに気付きます。2020年4月に入社した時点で売上は20年連続で下がり続けて直近の決算も大幅欠損、その上でコロナ禍に突入、という危急存亡な経営状況もその焦燥感に拍車をかけ、平社員ながら横断的な会社の仕組みづくりに着手し始めたわけです。
当時の自分は、人や仕事の不完全な部分が垣間見えるたびに正論を振りかざして指摘し、過去の歴史や人の感情に敬意を払うこともないまま否定から入って改革を推し進めるというラディカルなやり方をしていました。特に、会社の理念や行動規範のようなものが作られてからは、自分がその一番の体現者でなければいけない、常に完璧でなければいけない、といった具合で強迫観念にドライブがかかり、他人にもそれを求めるのが当然といった具合に思想的に大きな偏りが生まれた時期もありましたし、それによって人を傷つけることもあったはずです。
こうした考えの根底に何があるのかと改めて考えてみると「自分がどうにかしなければ会社が潰れてしまう」というものでした。
存在しない完璧を求め続けるデスマーチ
今思うと大変恥ずかしいのですが、家業に入った最初のころは、何か不完全なものを見つけるたびに指摘して、時には声を荒げて怒ったりということもそれなりにあって、自分なりに「これが経営者の仕事だ」と言い聞かせていていました。どれだけ自分が嫌われても、正論を貫き続けて歪みを直し、人や会社を完璧にしていかない限りは何も達成できない、と思い込んでいたわけですね。
でも、そもそも完璧な人や会社なんていうものは存在しません。この前提を無視して自分が完璧と定義しているものだけを追い求めるのは、恋人に理想像を押しつけるようなものだったと今になってわかります。「人や組織は不完全である」という前提に立たず、そこにいる人や感情のコンテクストを無視したまま経営者が怒り狂ったところで、完璧に近づくこともなければ心の距離もできるばかりの死の行軍です。そして、自分がこの完璧を目指して旗振りすればするほど、共感も協力も得られないまま孤独になっていきます。
もちろん、推進力を担保するために正論を貫くことはある程度必要なことではありますが、「完璧を目指すから不完全さは一切許容しない」というスタンスは自分自身も周りも非常に息苦しく、とても長期視点に立ったエコな思想ではなかったと思います。本来そうあるべきものが実現できていない、という何かが決定的に欠けた不本意な現実に翻弄され続けていては、人や組織の悪いところばかりが目につき、指摘したり怒ることが増えるばかりで永遠に誰の心も満たされることがないという現実を、3年経ってようやく理解できた実感があります。
不完全な自分を受け入れることが会社というコミュニティでの一員になる第一歩
「完璧」というものはそもそも主観的なものです。各々の心の中から目指したい理想の姿というものがあり、その理想像こそが「完璧」にあたるものだとは思うのですが、それはあくまでも主観的で内発的なものであって、誰かに強要されるものではありませんよね。人も組織も完璧じゃないけれど、それでも人も会社も存在し続けるんだから、それが否定されるばかりな環境では辛さとか苦しさが蔓延してしまうのではないでしょうか。
考えてみれば、自分だって完璧ではないわけです。経営者は組織の中で模範的な存在でなければいけない、という姿勢自体は間違ってはいないと思うのですが、自分自身も完璧でない以上まずはその不完全さを許容することがスタート地点なのかなと最近は感じています。もちろん改善をしない仲良しクラブではいけないし、価値をアップデートし続けなければ会社は潰れてしまうわけなのですが、それでも経営者の考える「完璧」だけが正義になるような主観を簒奪されたやり方ではだれも楽しく働くことなんてできません。完璧を求める人に対しては完璧を求めるのが人の性ですし、お互い不完全である以上その先には経営者と従業員という対立と負の感情の応酬しかない気がします。
そして何より、自分が目指したいと思っている会社の組織像は上意下達なヒエラルキーなものではなく、人と人とが心から打ち解けてコミュニケーションがとれるコミュニティのようなものです。communityという言葉は、co(共同)にmunus(与える)が語源であり、お互い与え合う意識を持った人同士の共同体だと考えると、経営者だって与えるだけではなく与えられる立場であってもいいと思うんですよね。与え合うというのは補い合うということですからコミュニティではお互いが支え合うべきものであって、完璧であろうとすればするほど、それを強要すればするほど、コミュニティという性質からは離れていってしまいます。そして、経営者だって血の通った一人の不完全な人間である、ということを自覚しない限りは、サンドバッグのような役割を引き受け続ける運命からは逃れられないのではないでしょうか。
僕は「経営者は孤独だ」という言葉があまり好きではありません。事業は誰かの不幸の上に成り立つようなものであってはいけないですし、経営者だってその例外ではないと信じています。経営者はコミュニティで中心的な役割を果たすことにはなるかもしれませんが、あくまでも「経営者」という役割のひとつに過ぎませんし、それ以上でもそれ以下でもないはずです。すごく傲慢かもしれませんが、経営者だって人間なんですから、不完全だっていいじゃないですか。世の中で喧伝される経営論は一旦置いといて、少し肩の力を抜くくらいでちょうどいいんじゃないかな。不完全な経営者でさえも受け入れて、そこを起点にみんなで変わっていけるコミュニティをつくっていけたらいいなあって、強く思っています。