【代表インタビュー:前編】人材育成事業を通じ、人・地域が活性化する地方の未来へ。九州を一度離れた場所から振り返ってみた、地方の魅力と課題。
『地方のできないをできるに』をミッションに掲げ、人材育成事業を中心に主に佐賀県、福岡県で事業展開をしている株式会社BottoKは今期で4年目を迎えました。
今回、BottoK代表の坂田さんにお話を伺い、起業という道を選んだ経緯、人材育成支援事業や地方への思い、またBottoK創業時から現在に至るまでの軌跡など、2部(前編・後編)にわたりご紹介します。前編では、佐賀で生まれ育った坂田さんが地元を離れたのち、最終的に九州に戻り起業するまでの道のりを、後編ではBottoKの軌跡と今後の展開、地方への思いなどをお届けします。ぜひ、最後までご覧ください。
30キロの自転車通学:アルバイトでの「教える」経験がキャリアの原点
ー 自己紹介をお願いいたします。
坂田 嵩佳(たかよし)と申します。佐賀県佐賀市で生まれ育ち、高校卒業まで佐賀が生活の拠点でした。大学は福岡にある学校へ進学し、実家から大学まで片道30キロの距離をほぼ毎日、自転車で通学していました。交通費も節約できて健康にも良い、一石二鳥と思っていたのですが、結局、お腹が空く度にコンビニで買い食いする日々。エコなのかどうか微妙でしたが、トラクターくらいしか通らない静かな田んぼ道を、友人とサイクリングしながら通学する時間は楽しかったです。
学生時代は同級生の仲間とバスケットボールのチームを作り、社会人チームが集まる組織にリーグ登録して活動していました。バスケットかアルバイトか、2択の学生生活でした。
ー 学生時代、どのような職業に就こうと思っていましたか?
社会人になったら何の仕事をしようかな、消防学校に通って消防士になろうか、はたまた教員免許はないけれどバスケットボールの先生になろうか、などぼんやりと考えてはいましたが、希望する特定の職種などはなかったです。
高校時代は教員を目指し教育学部の進学を希望していたのですが、叶わず経済学部へ進学した背景もあり、学生時代は個別塾のアルバイトをしていました。塾には勉強についていけない生徒が多く、とりあえず机について椅子に座ることからが学習、という状態です。生徒自身の成長はもちろんのこと、子どもの学ぶ姿勢に親御さんがとても喜ぶ様子も垣間見たりすることで、学習することはやはり重要なのだと痛感し、教えることのやりがいを感じ始めていました。
就職活動が本格的に始まり、「バスケを教える」「勉強を教える」といった経験から、「教える」「教育」などのキーワードで企業を検索するようになり、リクナビで人材育成事業を展開しているトーマツグループの企業がたまたま目に止まりました。会社説明会の開催会場が東京だったのですが、観光もかねて上京し参加することにしました。
教育は学生のためだけじゃない!:社会人教育の重要性に気づかされたあの日
ー 会社説明会では、何か出会いはありましたか?
事業の一つとして定額制の研修サービス、いわゆるサブスクを提供している会社だったのですが、説明会で当時の社長は「社会人教育の意義」について熱く語っていました。「松下幸之助の『水道哲学』(水道の水のように物資を潤沢に供給することにより、物価を低廉にし、消費者の手に容易に行き渡るようにしようという思想)のように、人材育成教育もそうあるべきだ、年間40〜50万円しか予算がない企業へも教育を届けるべきだ」、という内容でした。
中小企業とは、人材育成教育の必要性や課題とは、どれも全く理解していなかったですし、「教える」「学ぶ」とは学生が主な対象だと思っていたのですが、社会人に対する教育の意義と重要性を説明会で知り、「こういう道もあるのか!」と大変刺激を受け、結果的にその企業へ就職することになりました。
ガラリと変わった社会人生活:人材育成教育の重要性を問う日々
ー 東京で就職することになったのですね。初めて地元を離れることに、不安などありましたか?
20年以上、ずっと地元の佐賀を拠点に生活していたものの、上京して地元を離れることに寂しさはなかったですね。様々な場所で社会人経験を積んだ方が自分自身にとって絶対に良いはずだと信じていたので、いざ上京する時には「やったー!東京へいける!」「頑張ろう!」と言う気持ちでいっぱいでした。東京入りした初日、話しかけられる人が側に誰もいないとふと気づいた時が、唯一寂しさを感じた瞬間でした。
ただ、将来的にいづれ地元に戻り仕事をしたいと思っていたのと、トーマツが4、5年後に九州支店を立ち上げるビジョンがあると説明会で聞いていたので、拠点の立ち上げなどのタイミングで地元に戻れるのかな、とぼんやり思っていました。
ー 社会人1年目の生活は、いかがでしたか
2012年、当時の社名「トーマツイノベーション」に新卒で入社。トーマツのグループ企業、またグループ以外の企業に対する人材教育・育成などが主な事業内容でした。
東京で社会人1年目がスタートしました。佐賀県での生活から環境は180度、というより270度といってもいいくらいガラッと変わりましたね。年俸制度の会社だったので、給与自体は決まった額で一定水準あったのですが、とにかく朝から夜遅くまで一日中よく働いていた、という印象が記憶に残っています。
業務としては大きく二つ、中小企業の経営者に向けた定額制研修サービスの営業と、セミナー講師です。自分のやりたかったことはこれだ!という手応えや、自分が業務をしっかりこなせているという感覚は全くなかったです。1年目から多くの経営者に会いに行き人材育成の必要性を問うなど、改めて当時を振り返ると、かなり無茶なことに取り組んでいたと思います。
ただ、トーマツは人材育成・教育を事業としている会社なだけあって、なぜ自分たちの事業が世の中に存在するか、教育ビジネスとはどこに付加価値があり、お客様は何に対して喜んでいただけるか、といった経営理念の部分について、 新入社員に対してもしっかり浸透するような仕組みがありました。それゆえ、大変な面もあり辛く感じることもありましたが、 約三、四名ぐらいのメンバーと一人のリーダーで構成されるチームには、「頑張ろうぜ!」といった雰囲気は常にありました。チーム目標の予算を達成するために、まずは個人目標をそれぞれが達成しなければいけないのですが、個人の成果を上げるのはもちろんのこと、組織全体で成果を上げて行こう、といったチームを重んじる風潮は強かったです。
ー 生活も環境も270度の変化。多忙な日々を頑張れた原動力は?
実際には、日々の業務でかなりアップアップになっていた、というのが正直なところです。
パフォーマンスがなかなか上がらない時などは、「なんで、自分はここにいるんだろう」「なんで、朝から晩までこんなに働いているんだろう、、」という気持ちが湧き起こることもありました。同期は超難関大学を卒業したメンバーが多数いて、明らかに自分にとってレベルが高い組織だと感じていました。実際に会話の内容が高度すぎて、何を話しているのか理解できない場面も多々あり、ついていくためにただただ必死でした。サッカーで例えるならJ1でプレーするのとJ3では違うように、より、自分がコントロールできる職場で働いた方が、なれ親しんだ地元や九州に戻って仕事をした方がいいのでは、と思いがよぎることもあり、精神的にも肉体的にもとてもきつかった時もありましたが、3年間は絶対に頑張ろうと決めていました。
ただ、組織や上司の方々の魅力はとても大きく、社長が管理職に対してのリスペクトを示し伝えるような組織文化は、常に自分自身を前向きにしてくれていたと思います。人事コンサル企業では40代、50代でパートナーや管理職のポジションに上がり、若手時代は下積み、という会社が多いのですが、トーマツでは30歳手前の人が事業部長になっていたり、自分の年齢に近い先輩が管理職になり生き生きと輝きながら仕事をする姿をみたり、すぐそばにロールモデルとなる方がたくさんいたことなども、3年間頑張れた原動力の一つかもしれません。
起業への原点:経営者を理解できない。だったら自分が経営者になってみる?!
ー 実際の業務の中で、新たな気づきや変化はありましたか?
仕事柄、経営者に会う機会がとても多かったのですが、経営者という存在の特性や特徴が、なかなかつかめなかったんですね。「こんな経営者がいるのか」と、信じられないくらい素晴らしい社長に出会う一方で、人や従業員を、どちらかというと生産性を重視した手段として捉えているような社長とお会いすることもありました。様々なタイプの経営者とお会いする中、その特性を理解できない一方で、とても興味深い生き物とも感じていました。
アプリのバグを発見する事業を手掛けている、横浜にある企業の経営者の方が今も記憶に残っています。同社ではスマホを使い人力で作業するため、人材募集にあたって手先が器用な人を必要としていました。そこで、「手先が器用=楽器ができる人」とターゲットを絞り、各地のライブハウスのバンドマンに募集をかけたんですね。今でいう多様性、ダイバーシティの先駆けじゃないでしょうか。オフィスに行くと、本当に見た目が「ザ・バンドマン」と言った出で立ちの方がいらっしゃってとても驚きました。ただ、一定教育をすると素晴らしい成長と変貌を遂げていくんですよね。こういう人材の活かし方、経営の在り方があるのかととても興味深かった経験です。他にも面白い取り組みをしていたり驚くくらい情に熱い方など、経営者と話す機会はとにかく多かったです。
ある時、上司から「人材育成というのは経営課題のほんの一部でしかない」、と言われた時はとても衝撃的でした。人材育成イコール全ての解決策と捉えていたので、そうであるならば経営課題というのは他にどんなことがあるのだろうか、と理解することが全くできなかったです。
「そうか、自分自身が経営者になれば、経営者を理解できるかもしれない」とふと思ったんです。自らが経営者として経営課題に取り組み、人材育成が企業にどのような役割を果たすのかを身をもって経験することで、企業に対し人材育成の意義をより説得力を持って伝えられるのではないか。経営者を支援するのであれば自分が経営者になった方がいいのではないか、と思い始めていました。起業して何か成し遂げたい、世に残したい、といった思いは全くなかったですね。
ゼロイチの経験:経営者になるなら、まずは事業立ち上げを経験してみる
ー 自らが経営者になってみようと思い始めたんですね。次のステージへのきっかけは?
トーマツは非常に組織文化も素晴らしく、存在意義も感じていました。その一方で、就職して 二、三年がたち業務にもある程度慣れてきた頃、今後のキャリアについて考える時期でもありました。自分自身のキャリアのステージを上げるためには、トーマツでの業務をこの先もずっとやり続ける道ではなく、別の環境に身を置き、いつか経営者を体現するためにも、何か新たな取り組みにチャレンジすることが必要ではないか、と感じるようになっていました。
ちょうどその頃、大学時代からご縁のあった地元九州にあるリクルート代理店の社長から声をかけてもらい、最終的に内定もいただいていました。いづれ九州に戻ろうと思っていたので、地元の企業で経験し、ゆくゆくは起業できたらという思いでしたね。
ところが、九州へ行こうとしていた約2、3週間前、トーマツ時代の上司の方が四国に人材育成の会社を立ち上げる、とのことでお話を伺う機会がありました。「30歳ぐらいで独立したい」ということは伝えてあり、話をする中で「経営者を目指すなら、事業の立ち上げの『ゼロイチ部分』を一緒に体感することは重要ではないか」「自分自身のキャリアに対してもっと負荷をかけた方がいいと思う」、とアドバイスといいますか、入社のお誘いをいただきました。
九州の企業も魅力的な業務内容を提示していただいており行く気満々だったのですが、「ゼロイチを経験した方が」との言葉が深く響いたことや、まず経験を積み周囲の人たちから認められてから独立したいと思うようになったことなどから、急転直下で四国入りすることに決めました。24、25歳の頃でした。
首都圏から四国入り:地方の課題を肌で感じる日々
ー 賑やかな都会から、地方の四国へ。印象はいかがでしたか?
四国では、2015年から2021年の約6年間、ストロングポイントという会社に在籍しました。実は、四国へは1度も行ったことがなかったんです。社長、副社長はトーマツ時代の上司だったので、打ち合わせは東京でしていました。いざ『高知龍馬空港』に降り立った時、空港近くは椰子の木がバーっと並んでいる以外は本当に何もなく、「そもそも企業があるのか?」との思いがよぎりました。流石に街の中心地に出たら色々あり安心しました(笑)。
オフィス兼事務所を山の上にある古民家風な建物に構えました。裏は山で冬はとにかく寒い!佐賀県出身の身としては、田舎レベルは地元とさほど変わらなかったです。
四国での業務内容は、それまでとは全く違いましたね。月額定額研修サービスを作る、営業する、導入した会社から「こういう研修サービスを受けたい」と連絡がくるので企画する。研修開催にあたり「会場や駐車場」などの事前アナウンス、資料のコピー、会場設営、受付、研修講師、と全てをワンオペで担当しました。
2014年、2015年頃だったので、今でいうオンライン営業などはなく、電話でアポイントをとる、取れないなら車を走らせ直接伺う、誰も受け取ってくれなければ受付に託す、という営業スタイルで奔走していました。研修パッケージは東京にいる社長と副社長が主に作成、現場での落とし込みは自分が担当しました。1年後くらいに社長の同級生が入り、二人体制になるまでの一人体制の日々は、とても貴重な多くの経験をすることができました。
ー 首都圏と地方の違いなど、ありましたか?
セミナー講師の時に、とても強く感じました。
東京では、受講者が前向きな方が多く、講師としてはある意味で楽でした。研修のプログラムをしっかり組み、マニュアル通りに進めさえすれば、受講者から24、25歳くらいの若造講師に対して「学びになりました」と言ってもらえるんですね。東京や首都圏では一定の競争原理が働き、学ぶことで自分が置いていかれない、という考えは多少なりともあったと思います。もちろんモチベーションの低い人がいることもあるけれど、ワークショップで取り組む際には意識の高い人が多くいるので、周囲は感化されたりしますよね。全然雰囲気が違いました。それこそベンチャー企業や大企業のエース社員なんかも受講しており、質問の内容も時には鋭いものだったり学ぶ目的も自ら見つけていて、とにかく意欲が高い方が多かったです。
四国では、まず受講する方の職種が多岐にわたっていました。高知は森林が豊かで林業が盛んな地域であり、また海にも面しているため漁業に従事される方も多いです。こうした地域に根ざした産業に従事される方々にとって、研修内容がどのように自分たちの仕事につながるのかが、すぐにはイメージしにくい場合があります。「自分たちの仕事には関係がないのでは?」と感じる方もいれば「これが一体何の役に立つんだろう?」と疑問を持たれる方もいました。
研修を実施する際には、内容をどのように噛み砕いて伝えるか、どうやって受講者の仕事と結びつけて動機づけをするかが、とても難しく感じていました。
セミナー受講後のアンケートでは満足度がとても低かったです。受講生から「説明している言葉の意味がわからない」「研修を受ける動機がなく受講した。早く帰りたかった」といった声を聞くようになり、「ああ、そういうことか。受講する手前の問題だったのか」と気付かされました。
ただ、研修を受けることで、学ばないことに対する危機感や気づきを得られる方も一定数いて、「世界が広がった」「会社でチャレンジしようと思う」という声を聞くことができたり、場合によっては転職のきっかけになることもありました。
ー 受講生の背景が多様なだけに、動機づけや理解を深める工夫が求められますね。
東京勤務時代、帰省して地元の同級生に再会した時に抱いたモヤモヤした気持ちが、ここでリンクしたんです。高校を卒業後、そのまま地元の企業に就職した社会人5年目くらいの同級生たちから聞こえてくるのは、会社に対しての不平不満や諦めの発言でした。当時は「愚痴を言うなら、自分で事業でも始めればいいのに」「転職すればいいのに」「まだ25歳手前なのに」という思いや、なんで自ら動こうとしないのだろう、といった違和感を感じていました。
ところが四国での研修を経験する中で、地方において人材の流動性が乏しく硬直化する土地柄となっているのは、研修や能力開発のサービスを受ける機会が乏しいことが一つの要因ではないかと思うようになりました。このような機会を届けることで、個人のキャリアに対して主体的に考えられる人が増え、「ただ仕事をこなすだけ」ではなく、「自分の未来を描き、積極的に行動する」ような文化や支援を提供する組織が増えれば、地方が盛り上がるのではないかと強く感じました。
高い収益性は見込めず、研修講師としても難易度が高いのですが、地方だからこそやる意義があるのだと認識できた四国での経験もまた、起業への原点になっていると思います。
ー 「30歳で起業」への思いは、変わらずでしたか?
28、29歳くらいから、自分のキャリアを自ら構築する必要性を強く意識しており、評価面談のタイミングで業務委託に切り替えることを打診していました。
業務委託に切り替える、というのは、個人としてのパフォーマンスに対する実際の評価を知りたかったんです。会社からの評価とは、将来への期待値もこめた評価です。例えば、年収600万円だったとしても、実際に600万円の付加価値を生み出しているわけでもなく、また自分自身がその感覚を持てている感覚があるわけでもなかったです。「本当に妥当な金額で査定してほしい」と伝えていて、もし200万円の評価であるならば、それは自分の実力が200万円であるということであって、真摯に受け止め理解した上で努力を重ね、自分の実力でキャリアを築き上げていきたいと思っていました。
根底にあったのは、自己肯定感が低く、自分でキャリアを積み上げていかないと自信にならないのだろうという思いがあったからです。振り返ると自身の経験が大きかったのかもしれません。大学受験で失敗し浪人したものの、結局、希望の大学にも学部にも不合格。なんとか合格できた大学への進学に対し親からも評価してもらえず、自分自身でも「何もいいことないよな」なんて思ったこともある20歳前後の経験が多少なりとも影響しているのかもしれません。自分の実力で成し遂げることがなぜ自信につながるか、というのは正直よくわからない部分ではありますが…。
ストロングポイントでの勤務も6年、ついに退職することが正式に決まりました。こうして四国での勤務を終えて、当初の予定通り起業へのステージに進むことになりました。
【後編へ続く】
インタビュー後編:「BottoKの軌跡、ともに創る地方の未来。眠る可能性を発掘し、活性化につながる挑戦を。」