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やっほー! KAI-YOU採用担当のかよちゃんです。Wantedlyさんでの募集を始めたので、久しぶりにFeedを更新します。
今回は、副代表 新見が書いたKAI-YOU BLOGの一部をご紹介します。これをすればみんなポップ!
現在転職を考えている皆さまの参考になったら幸いです。
これはKAI-YOU.netを運営する上で作成した「“POP”を捉える心構え」なるものの覚書だ。
本来は外部に公開するようなものではないんだけど、今週のブログ何書こうかなっていうのと、社長の米村が「あれ公開すればいいんじゃない?」となぜか乗り気だったので投下することになった。
KAI-YOUは、もともと文芸誌『界遊』という同人誌を母体にしていて、当時、ものすごくいろんなものから影響を受けていたため、この覚書にはそのエッセンスが色濃く残っている。参照元を記憶している場合はリンクを添えておく。
暇な時にでも読んでみてください。
取り上げるネタは、あらゆるジャンルの中で、POPなもの。
ここでいう「POP」とは、「そのジャンルを好きじゃない外側の人にも届きうるコンテンツ力のあるもの」。ただ、超情報化社会である昨今は「元ネタや背景を知っていないと面白がれないもの」、つまり文脈依存度の強いものも一定数存在する。それは、そのままでは、文脈を共有してない人にとっては“POP”なものにはならない。
そこで、記事ではその文脈の溝を埋めることで、POPを橋渡しするということを意識する。
そのため、「そのジャンルやコンテンツを全く知らない人でも記事を読めば、何がPOPなのか(なぜ面白いのか、どう盛り上がっているのか、あるいはなぜこれからPOPになると思うと筆者が考えているのか)がわかる記事」の構成を心がける。
ベタでもメタでもいいけど、なぜそれを素晴らしいと思うのか、自分の気持ちや考えを言語化できるようにすること。これには一定の修練が必要で、一番の近道は、「人と話す」か「ブログや日記を書く」ことだ。
それが「こじつけ」でもいい。こじつけることで、感情やロジックの道筋が自然と拓ける場合もある。発端が直感だったとしても、他者を納得させられるようにロジカルな理論を構築すること。ロジックを超えた説得力もあるが、それは大抵ロジックの後からついてくるものだから。
上と相反するが、「自分の感情さえ自分にもわからないことがある」という当たり前のことも常に思い出すこと。それが他者理解への第一歩だから。わからない自分の気持ちを追いかけたら開ける場合もあれば、ブラックボックスのまま存在することに意味がある場合もある。自問では見えず、対話で開ける時もある。
「すべてを知りたい」という欲望は真っ当だけど破綻している。受け取る情報は取捨選択をすること。かつて村上隆氏は「情報は自分のリアリティが及ぶ範囲に降ってくるものだ」と言っていた。
上とあわせて、一番良いのは、興味の範囲自体を広げ、常に自分が熱狂する立場(ファン)になること。興味のないことは勉強なんてしなくていいけど、興味のないことにも興味を持てるポイントを探せる姿勢、面白くなさそうに見えても角度を変えて面白さを見つけ出せる姿勢、その好奇心と探究心こそがポップであると知ること。
編集・ライティングの強みは、その人の生きてきたすべて、経験したすべてを武器にできることだ。よく学びよく話しよく聞き、血肉にしたものすべてが武器になる。だから、よく遊びよく生きて自分の武器を増やすこと。一分一秒を無駄にしないための方法は人それぞれで、その一番の初歩にして単純明確な方法は「メモ帳にメモをとること」だ。
良いコンテンツはほっといても沢山目にする。もちろんそれに学べるが、実は、最良のものより最悪のものの方に学ぶことが多い。記事でも作品でも、悪いものも積極的に享受すること。自分だったらどうしたか、考えながら体験するといいって冨樫義博も言っていた。
彼は、初代の担当編集に「面白くない映画を沢山観ろ」と言われた。こうすれば面白くなったんじゃないかと考えながら観ることで、作劇を学んだと語っていたことがある。
人格や考えというものは、記憶と同じく、アウトプットされたもの自体ではなく、思考するプロセス=運動性そのものに宿るものだから。詳しくは『攻殻機動隊』など参照のこと。
批評と同様、ネットメディアのコンテンツは権威に守られていない。だから「なぜこのコンテンツが発信される必要があるのか/なぜ『POP』なのか」という自己弁護、自己言及性を常に内在化させること。
企画・執筆段階で、テーマを明白にさえしていれば、後はそれを冒頭で明かすのか、最後に明かすのか、繰り返しリフレインさせるのか、その伝え方を考えればいい。
ある程度の勝ちパターンを自分の中でつくるのはいいけど、捉われ過ぎないこと。
例えば取材にいって「背景や経緯」と「スタッフの秘めた思い」と「観客のリアクション」と「それによって思い描ける未来像」があればコンテンツはつくれる。つくれるけどそれが一番「POP」に伝えられる構成かどうかは自問すること。
現場には、シミュレートしておいても実際はシミュレートできない余剰がたくさんある。その余剰の多さによって良い現場かどうかは決まる。偶有性には開かれていてほしい。余剰を楽しむためにも、最低限の準備を怠らないこと。
ファクトは大事。だけどファクトだけなら報道で、執筆者の意見こそがコンテンツになる(場合もある)。事実としての「正解/不正解」と、それを「信じるか信じないか」そこに「賭けるか賭けないか」「期待するかしないか」は別の話として峻別すること。
「なぜ『POP』なのか」を説明する時、自分の言葉で主観的に語るか、データや事実に基づいて客観的に語るか、あるいはその双方か、その性質によって使い分けること
社会と接続するためには、意味づけ(「建て付け」と言われるもの)が必ず必要で、それを読者に明確に提示すること
事実としての間違いは最も恐れるべき要素だけど、間違った信念を恐れるな。うざい自意識を恥じるな(読者を阻害するレベルかどうかはバランスを見ること)。批判されることを恐れるな。というようなことを東浩紀が言ってた。
誰しも、いきなり自分の言葉で話すことはできない。必ず何かの模倣でしかないことを踏まえた上で、何かを学べる模倣は積極的に試みること。他人のやり方を模倣してもいい、コンテンツの作り方や見せ方、写真の撮り方、キャプションやタイトルのつけ方、それは積極的に模倣して、自分の血肉にできたらそれはもう自分のものだと誇ろう。
記事で失敗することのデメリットは、究極的には「記事がコケる」という事実が残るだけだ。でも、「失敗した理由」を分析して思考すること。そうやって失敗の確率を狭めていこう。
ゲーテによる美しい詩を引いておく。
「涙とともにパンを食べたことのないもの
悲しみにみちた幾夜をベッドで泣きあかしたことのないもの
そうしたものには 天上の霊の力がわからない(「ヴィルヘルム・マイスターの徒弟時代」より)」
「役に立とう」と気負うことも傲りだ。必ずしも社会にとっての意味なんかなくても、「これを届けたい」必然性が自分の中にあれば、出し方と見せ方さえ間違えなければ必ずそれは誰かに呼応すると信じること。
「どういう環境にいるどんな人に届けたいのか」を想定すること。読者の顔をイメージすること。「自分のことを考えてくれている人(メディア)になる」ということが、メディアがファンを獲得する一つの方法だ。コンテンツは、コンテンツを通して読者とコミュニケーションをするための媒介だから。
「読書の真髄は、孤独のただなかにあってもコミュニケーションを実らせることのできる奇跡にあると思う」(『プルーストとイカ』より)
その先に、本来届けたかった人を超えて、遠くの人に思いがけず届く可能性が生まれる。その「誤配」こそがメディアの理想であり、その「誤配」の果てに、誰も思い描かなかった何か(ゴースト)が立ち現れるかもしれない。
何かを伝えようとする時、必ず自問自答してほしい。文章を書く上で、見えない「なぜ?」を入れていくといい。「〜〜〜である。(なぜ?)〜〜だからだ」。
コンテンツが「何かを誰かに伝えるゲーム」だとすると、その勝利条件は「あちらが知りたいことを過不足なく伝えれば勝ち、その上でこちらが重ねて伝えたいことをも伝えられたら圧勝」だとすると、敵は読者ではなく「コンテンツの意図を阻害するもの」だ。記事であればその敵は「読みづらさ」であったり「誤字脱字」であるかもしれない
本来は「そこから何を受け取るか」はユーザーに明け渡さなければいけない。ただ、現在は、共感が最も強いファクターになっているのも事実だ。「楽しい」「悲しい」「すごい」「キモい」「ムカつく」…様々な感情の中でも、どの感情を共有したいのか、コンテンツを準備する段階で決めておくこと
目先のPVに捉われすぎると、未来への種がまけなくなる
「自分がどの立場にいるのか」「どういう経験やスキルを持っているのか」といった素性を明かすことで、より説得力を与えられるのだとしたら、必ず素性は明かすこと
いろんな可能性を思う(疑う)こと。いろんな可能性を検証する=祈ること。新たな視点や解釈を加えること
書いたコンテンツ、編集したコンテンツは、全部自分の子供だと思うこと。自分の子供の成長のためには、時には改名もする。ただし、釣りタイトルにして自分の子供がバッシングを受ける可能性とそのリスクについても思いを馳せ、天秤にかけること
良いコンテンツをつくる仕事が5割、それをどうやって「届けるのか」考える仕事が5割。これが編集の仕事だと知ること。「良いコンテンツをつくったのにコケました」は編集者の怠慢
同時に、読み手に何かを「強いる」コンテンツがあったら編集者の怠慢だと知ること。読者は忘れやすいし協力的ではない。「知識を前提にしない」「文脈は説明する」「難しい言葉は噛み砕く」ということは、つまり読者の負担をなくす作業の一つだ。
だから重要なフレーズはリフレインさせる必要があるし、問いかけの答えはすぐ近くにあってほしい。サイトに言及したらリンクはすぐ傍にあってほしい。ただ、それをあえて「強いる」ことでフックに使う場合もあり、意図的な狙いがあればその限りではない。
「すべてを知りたい」という欲望と同様、「すべてを書きたい」という欲望もまた、正当だけど暴力的だ。「情報の取捨」を編集が手放すということは、読者にそれを強いるということだ。読者に選択を強いるコンテンツは送り手の怠慢だと知ること。「あってもいいかも」というものはなくていい。オッカムの剃刀は振るわれなければならない。
ユーザーに届けるという目的に対する手段の一つに情報を「単純化」するという手もある。けれど、複雑なものを複雑なものとして受け止める必要がある場合も確実に存在する。
いつでも真面目で誠実であろうとしてほしいが、それが「今必要かどうか」はいつも考えること。不真面目で不誠実だからこそ一石を投じることができる時もある。逆に、「誠実さを打ち出した方が支持を得られる」という場合は、誠実さを全力で装うべき。長年テレビで活躍する、さるコメディアン・演出家は、セミナーでいつも「人に見せない努力ほど無駄なものはない」と教えている。
「声をあげる」「言語化する」ということは究極的には暴力だ。「あるコンテンツを取り上げる」ということは極論では「別のコンテンツを取り上げないこと」で、何かを発信する以上は必ず排他性・暴力性を帯びる。そして、声が大きいメディアであればあるほど、その暴力は権威を帯びる。編集者は、常にその暴力や権力には自覚的であること。暴力を振るってまで伝えたいことがあるかどうかを自分の胸に常に問うべきで、それで傷つく人もいるかもしれない可能性は思うこと。
権威に溺れない唯一の方法はたぶん、コンテンツや事象がなければ存在できない脆弱な存在である、ということを自覚することだと思う。
メディアに携わる、何かを発信する。なぜこんな業の深い生き方を選んだのか、常に自分に問い続けること。もし、その内なる問いに答えられなくなったら、その時はもしかしたら「潮時」なのかもしれない。
完全に余談だけど、ハイデガーは「否応無しに投げ込まれた世界を生きなければいけない」人間の不安な状態を「被投性」と呼んだ。そして、いつか強制的に世界から退場させられる死を思うことを「先駆的覚悟性」とした。さらに、そのもっと先、死を思うことで自分の生を捉え直して、未来という可能性に向かって自分自身を投げかけていく試みを「投企」と呼んだ。ベンチャーなんて不安しかない。Webメディアも不安しかない。でもその不安に振り回されるんじゃなくて、現在から未来に向かって自分を投げ出す「投企」でいなければ、こんなことをやっている意味がそもそもない。
誤解している人がいるが、平等であることがメディアではない。言いたいことを我慢して自分を殺して中立であるのがメディアではない。恣意性が積み重なって構築されているメディアは、平等とは真逆のものだ。色んな不自由・閉塞・制約を超えて、価値を転覆させるものがPOPで、価値を転覆させることこそがメディアのメディアたる所以だ。
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