週末盛岡に遊びに行った。
盛岡は我が故郷である。
私の母校(高校)の先輩に、宮沢賢治氏がいる。
私は小さいころから賢治の童話を読み、雨ニモマケズを読み、国語の教科書でやまなしをならった。
大学に入ってからも、楢ノ木大学士の野宿の読解と岩石学的プロセスに関する考察をレポートで取りまとめる(課題を出してくださったのが私の指導教官でありました)など、改めて振り返ると人生の節々に、宮沢賢治がいたのだと感じる。
私も彼と同じように、鉱物に興味を持ち、地質を学んだ。
所属した推理小説研究会では、年に1回部誌を作成した。
そこに寄せた短編小説は、楢ノ木大学士の野宿の影響を多分に受けた作品だったと記憶している。
賢治の作品を読むと、専門知識を第三者に広く届けるアウトリーチ的観点が常にあったように感じる。
学んだことを社会に還元するために、どう届けるか。
子どもに、大人に、どうすれば伝わるかを、よく考えていたのだろう。
教鞭をとっていたからなおさらかもしれない。
改めて「雨ニモマケズ」を読み直してみた。
対人関係で悩んだからだ。
以前読んだときは、困難に耐え他人のために尽くす自己犠牲の姿勢を美とし、そういう者に私はなりたいという宣言なのだと感じていた。
しかし今回感じたのは、
・変えられない環境の中で、それに必要以上に振り回されず、自分にできることを続けること
・なんでも自分の力で解決するという強さではなく、コントロールできないものに対して、自分を過剰に強く出さない姿勢
・自分の意思では変えられないことまで支配しようとせず、それでも自分が選べる行動には責任を持つこと
・自分がしたい親切ではなく、相手に必要なことをすること
である。
ここには共感の本質があると感じる。
相手が今どのような状況にいて、何を必要としているかを想像し、必要な行動へ移すこと。
感情で終わらせず、行動へ変換する。
この作品に描かれているのは、実践としての共感なのではないか。
周囲にデクノボーと呼ばれ
褒められもせず苦にもされなくても
そこが到達点でも何でもない、どういう状況でも自分の中の、自分の価値は変わらない
ということではないか。
そういう者に私はなりたい。
と結ばれる。
自己紹介ではなく、あるべき姿の開示。
すでに達成した自分ではなく、完全になり切れていない理想の自分を示している。
私はこの言葉に誠実さを感じる。
生き方の宣言という点で、Wantedlyの記事の先駆けのように感じる。
言葉に共感する人が時代を超えて集まり続ける。
彼自身はこの作品を自ら外に出すことなく生涯を終えたが、私たちは様々な価値観を見聞きし、自らも発信できる時代を生きている。
それぞれが、それぞれのあるべき姿、あるべき姿と現実のギャップ、そこでどう感じたか、どう行動しているか、現実をどう受け入れ、どうあるべきかを考えている。
そうしたものを参考にしつつ、自らのあるべき姿をも上方修正しながら常にアップデートしていきたい。
私は現在、管理職ではないものの、管理技術者や主任技術者を務める場面が増え、後輩指導を求められ、広報活動でもリーダーシップを発揮する役割をいただいている。
マネジメントについては、技術士合格のために学んだ知識レベルにとどまり、実践知が乏しい。
評価されなくても。
相手が必要としていることを考え、よりそい、自分にできることを静かに実践し、一人ですべてを背負わず、人を頼り、頼られる。
そういう技術者に、リーダーに、人間に、私はなりたい。
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