海辺の灯(ともしび)
海辺の灯(ともしび)
― 暮らしを照らす小さな炎 ―
夕暮れどき、港の灯りがひとつ、またひとつと灯っていく。
潮風の中に、魚と海藻の匂い。
昼の喧騒が静まり、海が深い呼吸をはじめる時間だ。
その防波堤の端で、古びたランプをともしていたのが、漁師の真栄田さんだった。
火をつける手つきはゆっくりと、まるで祈るようだった。
「海はな、暗くても怖くない。灯があるかどうかで、心の向きが変わるだけさ」
炎がゆらめくたびに、その皺だらけの顔が柔らかく光った。
真栄田さんは、若いころに一度海で命を落としかけたことがあるという。
嵐の日、波にのまれ、真っ暗な海の中でかすかに見えたのが、
港の灯りだった。
「その小さな光が、“まだ帰れる”って教えてくれたんだよ」
それ以来、漁に出るたびにこの灯をともすのだと。
「誰かの帰り道を照らせる灯でありたい」
その言葉が、夜風の中でゆっくりと胸に沁みた。
店に戻ると、厨房にも小さな炎がある。
鍋の下で揺れる火、炭の赤い光、
それらが料理を通してお客様の心をあたためていく。
真栄田さんの灯と、私の台所の火が、
どこかでつながっているような気がした。
その夜、彼からもらった魚を焼いた。
皮がはぜる音、漂う香ばしい匂い。
皿に盛りつけると、まるで夕暮れの海のような色になった。
お客様が「ほっとしますね」とつぶやく。
それは、料理人にとって何よりの言葉だ。
灯とは、明るさではなく、寄り添うあたたかさのことだと思う。
強く照らす光ではなく、
静かにそこにある光。
疲れた心を導き、
ひとときの安らぎをくれる、暮らしの中の祈りの火。
夜更け、店の灯を落とす前に外へ出る。
遠くに港の明かりが見える。
波音の向こうで、真栄田さんの灯が今も揺れているのだろう。
風が頬を撫で、海の匂いが胸いっぱいに広がった。
──明日もまた、火をともそう。
この小さな灯が、誰かの心を照らすように。
そして、島の夜にもうひとつの光が増えるように。