イスタンブールで感じたこと
こんにちは。私のストーリーに興味を持ってくださりありがとうございます。どうにかして私らしさをアピールしたいと思い、イスタンブール旅行の間、特に思考を巡らせた話を3つを書いてみました。
目次
勝手なカテゴライズのはなし
味の記憶のはなし
ローカライズのはなし
さいごに
勝手なカテゴライズのはなし
イギリス留学中、ひとりで英語圏外で生きることにチャレンジしようと、イスタンブール旅行を決めました。なぜイスタンブールを選んだのかというと、猫とコーヒーが大好きだからです。アヤソフィアやグランドバザールなど有名どころがひしめく旧市街を歩いていると、いたるところに猫、猫、猫!本当にたくさんの猫が道を堂々と歩いていて、現地の人は誰も見向きもしないのです。猫飼いとしてはたまらない光景です。
旧市街で猫と同じくらい多いのが客引きです。「こんにちは」「日本人?」「ジャパン?」と、客引きの人々からひっきりなしに声を掛けられます。最初は「本当に親日国と言われているだけあるな」と感嘆したのですが、これがずっと1分の休みもなく続くのです。もちろん舐められては困るので笑顔を見せたり、答えたりはしていませんが、声を掛けられるだけで体力がだんだんと削られていくのを感じました。まだ半日も経っていないのに、せっかく事前予約していたモスクへの入場も断念するほど心が疲弊しきっていました。
旧市街の喧騒から逃げるようにしてたどり着いた緑豊かな公園で、三時間ほど反省会をして過ごしました。暑さと空腹と疲労で朦朧としながらも、Chat GPTに向かって不満や自分の感情をぶつけます。そこでたどり着いたのは「初めて来た場所で警戒心MAXな上、日本語で声を掛けられ続けたせいで、常に見られている感覚が一層気を張らせた」という結論です。日本語で話しかけられるなんて嬉しい、と思うかもしれませんが、渋谷の街でほぼすべての店の前で「こんにちは!日本人?」と声をかけられることを想像してみてください。疲れるに決まっています。
次の日は海を渡り、アジア側のカドキョイエリアを探索することに。ヨーロッパ側の旧市街と違った空気が流れているのを、フェリーを降りてすぐに感じました。観光客でごった返す市場を歩いていても、一度も日本語で話しかけられることがなく、「誰からも見られないってこんなに楽なんだ!」と感激しました。ただこの「有象無象の一部にいることの快適さ」の発見は「ユニークな存在になる」という信念を行動基準にしている私の意志と相反しており、少し歯がゆい気もしました。(ここでいうユニークは「奇妙な」ではなく、「唯一無二」の方です。)誰かに特別に見られたいと思う一方で、誰にも気づかれずにいられる自由さに救われる自分がいるのです。
ユニークな存在でいるには大変なこともある。ここで言いたいのは断じてそういう臭いことでは無く、「勝手なカテゴライズ」は精神衛生上よくないね、ということです。
カドキョイの穏やかな雰囲気を肌で感じながら、私はこう考えました。昨日たくさんの客引きの人たちに「日本人!」と呼ばれて嫌だった理由は、見た目からのみで判断できる属性でいきなり勝手にカテゴライズされて対応されることへの忌避感だったのかもしれない。ある人は私が前を通るタイミングで「あれ落ちましたよ」と言ったり、またある人は「超かわいい」を連呼したり、「日本語を話せば日本人はこっちを向いてくれるだろう」という彼らの意図が透けて感じられました。SNS上でよく見られる、海外の人々から見た日本人のイメージとして「あまり怒らない」というのがあります。旧市街の人たちにも少なからずそのステレオタイプなイメージをもとに声かけを行ってる部分はあるかもしれません。あっちは商売で、こっちは外国人観光客なんだからしょうがない。そう割り切ってもいいですが、浅草で日本人商人が通りかかる人みんなに「チャイニーズ?」「アメリカン?」といちいち言っていたらどうでしょう。
こうした、見た目で人種を判断し、そのステレオタイプをもとにアプローチする行為は、「レイシャルプロファイリング」と呼ばれ、人権問題として日本でもここ数年問題視されています。このワードで検索すると今年の3月の記事にヒットします。記事を要約すると、今年2月に、人種や肌の色、国籍、民族的出自だけを理由に職務質問を受けた外国ルーツの男性3人が、国や東京都、愛知県を訴えた裁判で、原告側が新たな証拠を提出しました。その証拠には、元警察官の「外国人に不審事由がなくても職務質問するのが当たり前だった」という証言、外国籍者が受ける職務質問は日本国籍者の約5.6倍に上るという比較調査、小学6年生までもが対象になった当事者証言が含まれています(https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1803638?display=1)。
「レイシャルプロファイリング」という言葉を知ったのは三年以上前ですが、ずいぶんひどい話なのでよく覚えています。人が職質されている場は何度か見たことありますが、めちゃくちゃ悪目立ちします。自分でどうにもならない外見を目印にして声をかけられるのだけで嫌なのに、通行人に「あの人何かやらかしたのかな」というような目で見られるのはたまったもんじゃありません。
しかし、やはり日本にいると自分がマジョリティなため、当事者の苦悩を完全に理解しているとは言えない程度の理解度だったと思います。今回、イスタンブールに行ったことで「勝手なカテゴライズ」を体験し、心を大幅に消耗したことで、日本で暮らすマイノリティの人々のために声を上げる、彼らを支持し続けることを改めて心に決めました。
そしてもうひとつ、「レイシャル」って言葉がつくとすごく重い社会問題に聞こえるけれど、実際は私たちの日常にも同じ構造が転がっていると思います。○○ちゃんってこういう服好きでしょ!もナチュラルカテゴライズだと考えます。何度も言われると否定するのも面倒だし、「勝手に決めないでよ」と思ってしまいます。ChatGPTに「あなたらしいね!」って言われて、「私のなにがわかる!?」ってムキになるくらいには、カテゴライズされるのが苦手です。多分、外側から見える情報を元にカテゴライズされた属性じゃなくて、「私という人間のもっと深い面を見てほしい」と他人に期待してしまうのです。これって私だけですか?
話がそれましたが、もちろん、決してイスタンブールの人々がみんな失礼、と言っているわけではありません。旧市街が異様だっただけで、他のエリアでは堂々と歩いていたし、率先して助けてくれた人々もいました。バスの料金を払うのに失敗したとき、近くにいた学生が交通カードを私に差し出してくれました。私は驚きと感動で胸を詰まらせながら英語で感謝と謝罪の意を伝えました。が、なんと彼が英語を全く理解していなかったのです。言葉が絶対通じないとわかっているのにとっさに人を助けられる行動力に感銘を受け、迷惑にならない程度に彼に尊敬のまなざしを向けていました。
街ではやはり観光地なだけあって、レストランやカフェの店員さんはみんな英語で接客してくれました。ずっと気になっていた本場のトルココーヒーは、後味のすっきり感がなくあまり好みではありませんでした。ただ、私がコーヒーに一番求めているのは渋みだと思っていましたが、後味のすっきり感だったことが分かった点では大満足です。
味の記憶のはなし
トルココーヒー以外にもトルコの伝統的な食事をとることができましたが、最終日空港への道で「あんまりおいしいものに出会えなかったな」とつぶやいていました。しかし食べたものをひとつひとつ思い出すと、味はなかなか悪くないのです。二日目に食べたクナフェや四日目に食べたフムスとココレチなんかは最高で、グーグルレビューにも星五つつけたほどでした。
ではなぜ「おいしいものに出会えなかった」と感じたのか、バスに揺られながら考えました。たどり着いた仮説は二つです。
一つは「瞬間的な感情の共有」ができなかったから、です。私は思ったことや感じたことを瞬発的に口にしていくタイプの人間で、家族や友達の前では常にしゃべっていないと気が済みません。そんな人間が一人旅をすると、どうでしょう。感情を吐き出す場がなくなります。誰か同行者がその場にいれば、味の感想を言いあったり、席から見える景色について話したり、その場で五感で感じたことをすぐにアウトプットできるのですが。
味の記憶は1時間もあれば忘れてしまいそうな短い記憶ですが、味わうときの景色や感情を紐づけることで「あのお店のフムスはこんな味がしてすごく好きだった」と記憶にしっかり定着すると思うのです。現に、パリで食べた鴨肉の味はよく覚えています。同行者と「鴨が柔らかくてパクパク食べられる」「ソースが甘くて万人受けする味だけど新しい味だ」などと、絶賛し合いながら食事をしたからです。それに加えて、店員さんがアメリカンアクセントの英語で聞き取りやすかったことや、前に座っていた団体客は全員が食後にエスプレッソを飲んでいたこと、記憶のタンスの引き出しを無理して引っ張り出さなくてもすぐに情景を描くことができます。食事中に、見て聞いて感じたことをその場で同行者に共有するだけで記憶の定着度が驚くほど変わるのです。
これはよく学生時代テスト勉強において、インプットだけじゃなくてアウトプットをしろと散々言われてきた理由の証明だと感じました。頭の中で終わらせないで、しっかり口に出して言語化することで自分がすぐに出せる言葉となり血となり肉となるのです。ここであの時の伏線回収ができるとは、うれしいサプライズです。
もう一つの仮説は、「おいしい」は味の好みに大きく左右されるから、です。一見すごく当たり前のことですが、私は「おいしくて好きな味」と「おいしいけど好きではない味」があると思っていて、今回の旅では「おいしいけど好きではない味」が多かったのでは?と考えたのです。確かにバスクチーズケーキとトルココーヒーはおいしいけど好きではなかったし、トルコアイスも好みではありませんでした。
振り返ると私の「おいしくて好きな味」メーターは、かなり「だし・うまみ系である」と「意外性がある」に傾倒しています。イギリス留学中はそれらを兼ね備えた味と出会えなかったために、値段が高いわりに食事の満足感が伴っていない現象がよく起こりました。ある時、イギリスのカフェで「おいしいのハードル高くない?」と友達に言われ、一瞬戸惑いました。日本にいる間、家族から毎日「何でもおいしいっていうよね」と言われてきた私の舌は、イギリスに来てからいったいどう変化してしまったのでしょう。
答えは簡単。私は日本食が大大大好きなのです。特に日本食のだし・うまみを感じられるところが。二十二年間生きてきて、日本にいる間、おいしくないものに出会った記憶は一つもないことがそれを裏付けています。以前授業で、妊娠中や授乳期に母親がニンジンをよく摂っていた乳児は離乳食のニンジン味を嫌がらず好むという研究結果を読んだことがあります(https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/11389286/)。ここから飛躍して、味の好みは慣れ親しんだ味に傾向するのではないか、だから日本で育ってきた私は日本食のだし・うまみ系の味が好きなのだ、と考えました。
「意外性がある」に価値を感じるのは食べ物に限らず、新しいものに出会うことに快感を覚える性格なのが影響しています。定期的に知らないアーティストの素敵な音楽を探しにYouTubeを漁ったり、美術館では定番の名画よりも初めて見るアーティストや絵画との出会いを楽しみます。災難からスタートしたイスタンブール旅でも、マルセル・ザマさんというカナダのアーティストの作品を初めて観る機会があり、非常に豊かな体験となりました。彼の作品は色のコントラストがはっきりしていて迫力があり、動物や人間、さまざまなモチーフがカオスに配置されていて、シュールな世界観が表現されています。そして何より、政府や社会批判のメッセージが堂々と描かれている点がとても印象的でした。すべてにおいて私の好みどストレートで、感情が高ぶってどうにかなりそうでした。イスタンブールで一番の思い出は、彼の作品に出会えたことだと思います。
ローカライズのはなし
そして二番目の思い出は、オスマン帝国のスルタンが住んだ最後の宮殿、ドルマバフチェ宮殿を訪れた際、ローカライズの重要性に気づいたことでした。まず、ローカライズとは、コンテンツの言語や表現を違う言語に翻訳する際、単純に別の言語に置き換えるだけでなく、ターゲットの顧客にとってよりなじみのある形にかえることです。例えば、ドラマ「オレンジイズニューブラック」の一話で「You're missing my shower」というセリフが日本語字幕では「出産が近いのに」と訳されています。ここでいうシャワーとは出産を祝う欧米のパーティのことで、このまま「私たちのシャワーが恋しくなるでしょ」と訳しても日本人にはなんのことかわかりません。そこで「出産が近いのに」とすることで、セリフは変わりますが、登場人物が妊娠しているという状況を伝える分には過不足ありません。意味はそのままで、受け手にわかりやすいように表現方法を組みなおす。簡単に言えばこれがローカライズです。
なぜ宮殿でローカライズについて思いを馳せたのかというと、ドルマバフチェ宮殿のオーディオガイドのローカライズが不十分だと感じたのです。宮殿内はまさに豪華絢爛で見ごたえがあったのですが、オーディオガイドの説明が早すぎてまるでリスニング問題を聞いてるようでした。速すぎるせいで飾り棚の説明が聞こえて、「その飾り棚はどこかな」と、探しているうちにあっちの燭台や次の部屋の暖炉の話に移ってしまうのです。しかも、説明が専門的で事前知識が全くない私にはどれが象牙でできた燭台、どれが真珠貝の象嵌細工の飾り戸棚なのか、材料や技法を言われてもビジュアルの説明がないと区別できません。イスタンブール様式とはなんなのか、典型的な宮殿式の円形のヘルケ織絨毯は何がすごいのか。ピンとこない単語が多すぎて、オーディオガイドを聞きながらネットで有名なミームの「オフチョベットしたテフをマブガッドにしてリットにした…」を思い出していました。
単語が専門的でわからないのは私の知識不足であることに百も承知ですが、「もう少しユーザーに寄り添ってくれてもいいのに」と思ったところは、説明が順路と若干かみ合ってないところです。「海側の二番目の部屋は」と言われても右から二番目なのか、左から二番目なのかわからないし、オーディオガイドを再生した今いる場所からは遠いのです。「第三ホールにお進みください」と言われても会場には「スルタンの部屋」というような部屋の案内はあっても「第三ホール」という案内表示はないのです。これは単なる間違いだと思いますが、「星マークを押してください」と言われてもオーディオ機器に星マークのボタンはなく、クエスチョンマークを押したらビンゴでした。
このまま書いていったらただの文句になりそうなので、反対に良いと思ったオーディオガイドの話をしたいと思います。スペイン・バルセロナのガウディ建築の一つ、カサバトリョを訪れた際、オーディオガイドは完全に聞く人に寄り添ったつくりになっていました。ガウディの意図や歴史を語る男性ナレーションとカサバトリョ目線で部屋の用途を語る女性ナレーション(スペイン語で「家」は女性名詞なのです。とっても粋ですよね!)で構成されていて、「見上げてみてください」など視線誘導の言葉もあり、無理に集中して聞かなくても自然と耳に入ってきた記憶があります。オーディオガイドが素敵だったおかげでカサバトリョの滞在時間は一時間ほどでしたが、満足感がすごかったです。
つまり、オーディオガイドの質は体験全体の満足度に大きく関係するのです。たかがガイド、されどガイド。私のように目や耳からの情報をすべて得ようとしてしまう人間にとって、目と耳の情報がかみ合わないのは、まるで整備されていない道路を歩くようなもので、非常に疲れてしまいます。
そこで、重要なのはローカライズです。せっかく日本語に翻訳したのだから、日本人のイスラム世界知識レベルに合わせたり、日本人が好きそうなスルタンのドラマティックなエピソードを入れてみたり、より良くするやり方はいくらでもあるはずです。カサバトリョのように視線誘導のフレーズがあるだけで、ユーザーはさらに没入できると思います。また、アブデュルハミト二世が西洋音楽に力を入れていたという話もあったので、ナレーションの後ろにBGMを流してもいいかもしれません。
私がローカライズについて勉強したのはイスタンブールに来る直前、イギリス留学中の翻訳の授業です。翻訳の課題をこなすうち、ターゲットの年齢、知識レベル、目的などをしっかり決めてからそれに沿って訳すのが一番重要であると学びました。ただ、机の上で実際にいないターゲットに向かって翻訳するのは実践的ではあるものの、机上の空論のように感じていました。だから今回、ドルマバフチェ宮殿を訪れたことで、自分の身を通してローカライズの重要性を確認できたことは私にとって非常に大きな実り、そしてまたもや伏線回収だったのです。
こうやってユーザー目線に立ってモノづくりを考えることは翻訳にかかわらず、どの仕事でも非常に重要であると思います。何かを届けるためには受け手に寄り添い、受けてがより受け入れやすい形で届けないとこちらの声は届きません。私は約三年前「Misrepresentation」というメディアの女性客体化の歴史を語るドキュメンタリーを見たことで、絶望し、社会にもっと目を向けるようになりました。そして日々生活していく中で、だんだんとステレオタイプな考え方が世界にありふれていることに忌避感を覚え、将来的にそれを乗り越えていく輪を広げられるような作品や活動に携わりたいと考えるようになったのです。
この野望に近づくためには、やはり受け手の目線を意識した伝え方を身に着けることが重要になってくると思います。オーディオガイドを聞いた時自然にやったように、いろんなコンテンツのいいところ、足りないところを分析し、伝え方について日々学んでいきたいです。
さいごに
非常に長くなりましたが最後まで読んでいただきありがとうございました!初めてこのような随筆を書いたので少々読みづらいところもあるかもしれませんが、私の考え方を少しでも面白いなと思っていただけたら幸いです!それでは。
ドルマバフチェ宮殿の敷地内で撮ってもらいました!