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NOW OR NEVER

私の人間性や過去の経験などが分かるストーリーを、一つの軸を中心にまとめました。

4章に当たる「見えてきた物事のウラ」からお読み頂くのでも言いたいことが伝わると思います。全編続けると非常に長い為、ご判断にお任せします。

後で後悔するなら今行動しろ

プロの音楽家→犯罪心理/臨床心理士→空港のグランドスタッフ→VFXアーティスト

中学生以降、自分がなりたかった職業の変遷経緯である。


1. 響かなかったユーフォニアム

中学生の頃、中高6年間続けた吹奏楽部での楽器演奏に熱中して将来も続けたいと思っていた。

その頃の夢を打ち砕いたのは両親の言葉インターネット

「音楽で食べていける人間など目指す人間のほんの数パーセント才能が在るものだけだからやめなさい」

親に何度も諭され、親を論破すべくインターネットで調べ尽くすも、

当時、調べて分かる事は自分の楽器・ユーフォニアムがマイナー過ぎて奏者の需要が少ないという結論のみで、悶々としたまま時が過ぎ、次のなりたいものに行き着いた。


2. 途絶えかけた探究心

小学生の頃からテレビのサイコパス犯罪者や、解離性同一性障害といった珍しい症状を持つ、自分と大きく違った人間にフォーカスしたドキュメンタリー番組が好きだった。

高校時代、カナダで週一で通った日本語学校で将来の事について考える際、続けていた音楽が脳内を占める中、過去に見たユニークな人間性を持つ人々のドキュメンタリーがふと浮かび、調べていく中で犯罪心理学及び臨床心理学という学問がある事を知った。

自分がどう考えても行き着かない言動や思考を繰り広げる人間や、とある原因から自分でも制御出来ない精神的症状に向き合っている人々を自ら分析したいという知的好奇心から、彼らをより良い人生に導くための解決策を研究出来ないかと思った。

独学で知識を付け、社会的需要が上がっていると知り、大学は日本で行くことにしていた為、学びたい分野が学べる学校を調べていた。

日本の高校を卒業しておらず、留学生枠として海外に行った訳でもなかった私が受験出来る大学は限られていた。ほぼ唯一と思われる臨床心理が学べて私が受けられる大学は、海外にいる両親の受験料の振込がシステム的問題で間に合わずに受験すら出来ず終わった。私の2度目の切り替えるきっかけとなった。

常に夢を持って生きてきた私は、心理学を独学で学ぶと決め、大学選びの為に心理学以外に自分が何になりたいのか考え始めた。


3. 遠ざかるロールモデル

カナダと日本を何度も行き来し、何十回も空港を使ってきた私には空港での思い出があった。

両親がカナダにいる間、私と妹だけで日本に遊びに来たことがある。

そこで毎回お世話になっている航空会社のグランドスタッフさんが、私も妹も共に未成年であることを考慮してか、席を取った際は斜め前後ろの位置だった私と妹の席を、裏で妹の隣の席の方に交渉し、私と妹が隣同士に座れる様に席をアレンジしてくれたのだ。

彼女の裏での労力と気遣いを知った私は、将来彼女の様な人を感動させられる人間になりたいと思った。

その経験を思い出した私は、飛行機や空港が元々好きなのもあり、空港のグランドスタッフになることを目標にした。その夢を軸にした大学選びに成功し、グランドスタッフの輩出も多く、帰国生としての条件も合った学校の国際学部に入学。

自分なりに学業を進めていく傍ら、学校生活に物足りなさを感じていた私は、幾つかの学生団体やボランティアで他学生や社会人の知り合いを作りながら、大学2年生からインターンシップを始めた。

元々心理系の大学に行けないと分かった際に自分の人生の軸を失わない為に、受験生時代に焦りの中で半ばこじ付けの様に決めたグランドスタッフという夢。航空会社のインターンは当時の学年では受からず、4年間もある大学生活を有意義に使う為に、自分の世界を広げることで本当に自分のしたいことを再確認しようとボランティアやインターンを始めた私に次なる転機が訪れた。


4. 見えてきた物事のウラ

Wantedly経由でのインターンから始め、途中から英語力を買われて知り合い経由でインターンを始める様になり、ボランティアスタッフをしたイベントで知り合った学生の紹介で英語と映像を扱うインターンを始めた。

モノができる過程を知るのが好きで、過去にリクルートでものづくりを支援する新規事業のインターンをしたり、最新のテクノロジーに触れられる世界規模の起業家の祭典でボランティアをしていた為、興味範囲であるテクノロジーを題材にし、映像という身近なものを作る側になれる株式会社エブリー・Timeline部署でのインターンは非常にやりがいがあった。エブリーでインターンしながら、知り合いの紹介でディスカバリーチャンネルでのインターンも半年することも出来た。

そして映像系のインターンを1年ほど続けたあたりで気づいたのは、映像作りが自分に向いているかも知れないということだ。自分でどうすれば視聴者に響く動画になるかを考えたり、自分の動画の公開後に視聴時間や回数などを分析して次回以降の制作の気づきにするという思考作業が楽しかったのと、単純に映像を使ったクリエイティブな感覚を表現をすることに無限の可能性を見たことで映像の世界に引き込まれていった。

今までの自分は興味をベースとした”したいこと作り”が多かったが、報酬をもらって何かを成し遂げた経験をした上で生まれた”したいこと”が映像だった。20年程の人生の中でいくつもしたいこと探しの為に社会経験をしていた中で、特に当時はこれでないといけないと思ったくらいに映像に熱中した。

自分の好きなものが”したいこと”だった私が、面識のない不特定多数の人間を相手に自分の世界観をぶつけ、批評され、その経験を経たことで生まれた”したいこと”こそが本当にすべき事なのではないかと当時の私は気づいた。そしてこの”したいこと”への拘りが強くなった自分に、一番身近にいて何度も戦ってきた”人生のラスボス”が再び壁となった。


5. ラスボス討伐の軌跡 ~NOW OR NEVER~

映像を極めたいと思った私は、手っ取り早く映像の基礎を身につける為に、映像が学べる専門学校に行くと決めた。

大学3年生の夏のことだった。

ただし、私は20年間母親に身体的/精神的に虐待されていた過去があり、母親の思考回路を熟知していた私は、大学をやめて専門学校に行くなど真っ向から言い出しても相手にされないことを分かっていた。

そこで私は家出という手段に出た。

安く住めるシェアハウスを調べ尽くし、何食わぬ顔で出かけるふりをして契約をしに行き、サークルの合宿に行ってくるという程で、親の外出時に合宿には多すぎる荷物を持って、そのまま新しい部屋に移り住んだ。契約はとりあえず1ヶ月で様子見て延長にした。

中学の頃に母親との喧嘩中に最寄りの警察署まで走ったことならあるが、親との対立を家の外に持ち出したのはそれ以来だったため、当時今より行動力が無かった私には相当の覚悟が必要であった。

私を動かしたのは、映像への強い関心と、親や自分の置かれた環境に左右されて”したいこと”への道を逃してきた経験により自分の背中を押した今せねば後悔するという気持ちだった。

帰ると伝えた期間を過ぎても帰らなかった私に鬼電をしてくる母からの連絡を一旦ブロックし、より冷静に話し合える父親に連絡を取った私は、話があるのでその話を聞き入れてもらわない限り家に帰らないと言って父親と会い、専門学校に行きたい旨を伝えた。

なぜ私がこの道を進みたいかという理由や今までの覚悟を語り、音楽家になりたかった頃に両親の反対で挫けたことを思い出しながら、”成人した子供の夢を、古びた親の価値観だけで潰すのは今の時代を生きる子供の可能性を潰す酷い行為だ”と畳み掛けたのを覚えている。

最初は読み通り猛反対していた父も、私の話を聞いているうちに考えを変えてくれ、学費を自分で払うという条件付きで大学の退学及び専門学校への入学を許可してくれた。

親への交渉と並行して入学する専門学校を決めていた私は、一つのオープンキャンパスで知り合った先輩と意気投合し、あるはずだった学科長面接も校長面接も免除されて、秋に入学を約束された。

何を専門して学ぼうか考えた時に、物事の出来る過程を知ることが好きで、その頃よく映画のBehind The Scene、映画制作シーンやゲームの制作の裏話の記事をネットで見て、共通項目としてVFXという技術が要になっていると知っており、事前の体験授業でもこれだ、と思って、VFXを専攻にした。


6.NOW OR NEVER

  執筆中... 書くことが多すぎて一度に書ききれなかったので、一旦公開しましたが全てのコンテンツが上がるまでもうしばらくお時間を下さい。                    kaho.kuratsu@gmail.comかfacebookにご連絡頂ければ、完成時にお伝えさせて戴きます。