発達障害者は嘘をつく必要があるのか?
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私は健常者の社会で自分の立場を説明するために、よく嘘をついていました。
例えば「酔ったふり」をすることで、ADHD特有の「忘れっぽさ」の理由を説明したり、真面目なふりをすることでASD特有のこだわりやルーティンを説明したり、「シャイ」のふりをすることでコミュニケーション障害を誤魔化したりといったようなことです。私の特性を健常者の言語や文脈に置き換えることで、嘘をついて生きてきました。それが私の生きる工夫でした。
「発達障害」と開示したからと言って健常者社会に馴染める訳ではなく、ただ障害者であることが明示化されるだけです。本当に健常者の社会に組み込まれるためには、やはり嘘をつく事も必要なのではないかと考えることもあります。特に健常者と接触しなければならない状況の際には有効かもしれません。それは「嘘」と言うよりは「思いやり」とも言える配慮だと考えていました。
しかし、私が特段嘘をつくつもりがなくても、健常者が曲解し、私がその話に合わせていくことも多いです。私は真面目でもシャイでもありませんから、これは結局、誤解であるわけですが、その「誤解」も対人関係を成り立たせる必須要素なのではないかと考えるようになりました。むしろ、「誤解されること」を上手く活用するのもまた、ひとつの生き方のようにも思います。
よい誤解もあれば当然、悪い誤解もあります。言うなれば私の生き方は他者の想像の中によっていろいろな顔を持つと言う事でもあり、それは私と言う「概念」の使用権を売っていると言う事でもあるのではないかと思いました。
この「概念」をお金に変えられる仕組みを作ることが出来れば良いのですが、問題はASDが「嘘をつく」と言う事が嫌いだという点です。そこで私は若い頃は「フィクション」の世界に没頭していました。そこでなら私の特性を「翻訳」しながらも健常者にとって価値のあるものに出来ると考えていたのですが、表現力の限界から筆を折る事となりました。
しかし世界には「フィクション」と「真実」の境界がグレーな世界と言うものがたくさんあります。例えば宗教、芸能などです。私がこれらの世界に子供の頃から強く惹かれるのは、そこでなら自分に価値が付加されるかもしれないと期待していたからなのかもしれません。
ですからこれからも私は健常者との会話で「嘘」をつく事があるかもしれません。例えそれが誤解であったとしても。