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「ニューロダイバーシティ」と言う共産思想

 ASDは自閉症スペクトラムという言葉、いわゆる「発達障害」の存在がクローズアップされて久しい。
 それと同時によく耳にするようになったのが「ニューロダイバーシティ」という言葉です。
「ニューロ」とは「脳神経」、「ダイバーシティ」は多様性と言う事で、様々な脳の特性をありのままに受け入れてあげよう、と言う考え方です。と言ってもその組織の「お荷物」になってはいけないので、要は「特性に応じた仕事を割り振ってあげる」という考え方のことのようです。例えば「分類して、配布する」という仕事の場合、「分類する」が苦手であればその人は「配布」のみを担当し、他の人が「分類」を担当するなど業務の担当を再構築するといったことです。

 私はこの「ニューロダイバーシティ」という考え方に疑問があるので、少し聞いて欲しいのです。

「特性や特技を生かした仕事をしよう」と言う考え方は古くからよく言われている事です。人間には得意不得意があるのだから、それに合わせて生きていくことは合理的のように思います。

 では女性は「子供が産める」のだから子供を産むべきだ。

 男性は「体力がある」から肉体労働をするべきだ。

 男は外に出て働くべきだ。女は家事が得意なのだからするべきだ。
 と、そういう事になってくるのではないでしょうか?
 もちろん子供を産みたい女性、肉体労働をしたい男性はいるでしょう。しかし、それは「たまたま、特技と希望が一致しただけ」に過ぎないのです。では、外で働きたい女性は? そこには「支援」があって当然です。
 仕事は朝10時から午後6時までの人生の大半で行う、私たちの人生にとって最も大切なことです。もしそれがただ「得意だから」と言う理由だけで限られた選択肢しか無かった場合、その人の人生は果たして幸せと言えるのでしょうか? いつまでも正常な精神でいる事が出来るでしょうか? 人生を振り返って「幸せだった」と思えるでしょうか?
「ニューロダイバーシティ思想」の恐ろしさはこのように、当事者の人生の可能性を潰す所なのではないでしょうか。発達障害者だって、自分の意思に鈍感なだけで、機械ではありません。「才能があるからするべきだ」と言うだけで働かされるのはごめんです。だから、ニューロダイバーシティをすべての発達障害者に押し付けて欲しくないと思っています。

 すべての発達障害者が「自分らしく」「幸せに」生きるために必要なのは本当に「ニューロダイバーシティ」だけなのだろうかと考えて欲しいのです。