『秘密結社 鷹の爪』『パンパカパンツ』など、オリジナルキャラクターを活用したテレビアニメ、映画製作、企業や公的機関とのコラボレーションなどその勢いに注目が集まっている株式会社ディー・エル・イー。オリジナル以外にも、漫☆画太郎の原作を松山ケンイチ主演で実写化する映画『珍遊記』(2016年2月公開予定)のプロデュースを手掛けるなど、エンタテイメントとの関わり方が多様でユニークな企業です。
© 漫☆画太郎/集英社・「珍遊記」製作委員会
今回お話を伺うのはDLEの所属クリエイターのひとりであり、同社の取締役も務めるFROGMANさん。2004年フリーランスのクリエイターとして、Flashアニメーション『菅井くんと家族石』を自身のWEBサイトで発表し、サーバーがダウンするほどの人気に。2006年にDLEに入社後は、『秘密結社 鷹の爪』『古墳ギャルのコフィー』『働け!吉田くん』など、数々の作品を世に送り出してきました。前編では、FROGMANさんとFlashアニメーションとの出会い、各所から引っぱりだこの『秘密結社 鷹の爪』誕生の裏話から入社までの経緯を教えてもらいます。
はじまりは、小学5年生の時につくった『スター・ウォーズ』風の映像。
Flashアニメーションと出会うまでは映像制作のお仕事をされていたそうですが、もともと何かものを作ることに興味があったんですか?
「高校生の頃に映画監督になると決めて、高校卒業後から30代にかけて、ドラマや映画製作に携わりました。僕は板橋区の大山金井町という、子どもの足でも池袋まですぐに歩いていけるような場所で生まれて、両親は商売をやっていたのですが、いわゆるクリエイティブな仕事とかでは全くなく。ただ、僕は男だらけの7人兄弟の末っ子で兄貴たちの影響をすごく受けてるんです。10年の間に7人全員が生まれているから、ほとんど年子状態で、僕が小学校高学年くらいになると、兄貴がレンタルビデオ屋から映画を借りてきて、家族みんなでワーワー言いながら観たり。それが楽しくて、映画に興味を持つようになりました」
「小学校5年生のときに父親から8ミリカメラを譲り受けて、『スター・ウォーズ』みたいな映画を撮ったり。最初はカメラの性能もよくわからないから、接写するのにマクロレンズを使わず全部ピンボケしたりして。今思い出すと、かなりひどい内容でしたけど(笑)。高校の文化祭で作った映画は、他校の子も観にくるくらい、すごくウケたんです。それで映画監督になろうと」
映画監督を目指し、10代で就職。
人生の大きな転機は30歳前。
実際に現場に入ってからは、どんなお仕事を?
「19歳から報道カメラマンのアシスタントを始めて1年後、撮影助手を経て、ドラマや映画の制作部に移りました。制作は一番大変なやつですよ。ロケ地を見つけて、値段と時間の交渉をしたり、役者やスタッフの食事やトイレ、メイク場所の確保、駐車場の準備……。それでも毎日目の前のことに必死で。
僕は会社を辞めてフリーになってからずっと同じ先輩に付いていたんですけど、考え方も何もかも合わなくて辞めたいと思いつつ、その人と離れるとコネクションがなくなるので辞められなくて。でも、最後はクランクアップの日に「辞めてやるー!」って大喧嘩して辞めました。その後は自主映画を作ろうと思って、昼は自動販売機にジュースを入れる仕事、夜は勉強の時間として映画、音楽、アートに触れたり、クラブで遊んだりして。2年経ったタイミングで、知り合いのプロデューサーから連絡があって現場に復帰したものの、また別のことをしたくなってきた最中に錦織良成監督から「実家が島根なんだけど、島根を舞台にした映画作ろうと思って」って声を掛けられ、島根に連れて行かれるわけなんですよ」
島根県での撮影中、後に奥さんとなる女性と出会います。
「付き合って半年くらいで結婚しようと言われたけど、島根で暮らしてお金を稼ぐ術もないし、考えられなくて。でも、出会って結局1年足らずで結婚したんです。ほぼ勢いで。滞在中に仲良くなった漁師さんたちからの後押しがすごくて「出雲大社なら3万円でできるだー」「結婚しろー!結婚しろー!」って(笑)」
東京生まれ、島根暮らしが見つけた、インターネットでできるものづくりとは。
「インターネットを使えば自分で作った動画が流せるらしい」
2004年、mixiのベータ版がスタートした頃、とある番組を見たのをきっかけに、FROGMANさんはネットを使って動画を配信できないかと動き出します。
「ピーター・バラカンさんのCBSドキュメントという番組で、砂漠の荒野にスタジオを作ってインターネット番組を配信しているIT長者みたいな人を特集していたんです。それを見て、「インターネットがあれば、東京や大阪じゃなくても、作りたい物を作れるんだ」って。「それなら島根がいい!みんな注目するんじゃないかな」って思ったのが発端です。
今はYouTubeもあるし、動画の配信なんて簡単だけれど、当時はまだISDN回線が主流でネット回線も細く、ストリーミングサーバーを自分で用意しなくちゃいけなかった。そうなるとかかる金額は月に60万。これは無理だって1度は断念しました。でも、「なんとかなんねぇかなぁ」って悶々としながら、奥さんの収入に頼りつつ(笑)、近所の海苔屋さんでアルバイトしたり、PCが使えたからオーダーを受けて名刺を作ったり。そのうちにFlashを見つけたんです。アニメに興味はなかったけど、実写と違ってカメラマンや役者を雇わなくてもひとりでできる。しかも、容量が軽く配信しやすい。そこからしこしこ作りはじめたんですよね。それが『菅井くんと家族石』です」
© 2008「菅井君と家族石 THE MOVIE」製作委員会
「面白く、大量に、早く」
今までのアニメ制作の常識を壊したFlashアニメーション
FROGMANさんのデビュー作となったこの作品は、自身のWEBサイトで発表後、その年の8月に2ちゃんねるで注目されたのを機に、サーバーがダウンするほどの人気に。しかし、無料で公開していたためお金にはならず、公開していた作品9話分と書き下ろし2話を収録したDVDを1本2,000円で販売することにしたところ、予約は1週間で1500本を突破。最終的に5000本を売り上げたそうです。そうして手応えを掴んでは、新たな挑戦を続けてきました。
「そういえばキャラクターを使った広告って、誰も作ってないなあと思って、自分がアルバイトしていた海苔屋さんのCMをサンプルとして作って、「お宅も作りませんか?」って営業を始めました。東京からも引き合いがあって、3分の映像をひとりで2週間かけて作ったり」
「それまで、テレビとか新聞とか大きなメディアというのは、”人気がある=活躍できる”という仕組みじゃなかったじゃないですか。まず、テレビのルールや新聞のルール、映画のルールに則って、正式な手続きを踏まないとスターダムにのしあがれなかった。例えば芸能プロダクションに所属して、しかるべき仁義を踏むことだったり。今はYouTubeやニコニコ動画もあるし、当時でいう既定路線を踏まないでプロデビューする人がいる。12年前はようやくそれが叶いそうな感じがしてきた頃だったんです。僕は自分のやっていることで支持を得て、いわゆる業界の慣習を壊したかった。とにかく既定路線にのらずにいかにビジネスを大きくしていくかということにチャレンジしていたんですよ」
そして2005年、DLEの椎木隆太社長から海外向けのアニメを作ろうと声が掛かかります。そのときに提案したのが、『秘密結社 鷹の爪』の原案でした。
© DLE
各所に営業をかけたところ、海外ではなく国内での放送が決定し、FROGMANさんは拠点を島根から東京に戻します。2006年の春にスタートした『FROGMAN SHOW』は、世界征服をたくらむものの失敗ばかりの鷹の爪団と、乱暴者のヒーロー・デラックスファイターとのやり取りを描いた「鷹の爪」、古墳たちの恋と友情と青春を描いた「古墳のコフィーちゃん」のコメディ2本立てで大ブレイク。現在、NHK Eテレで毎週放送しているほか、映画『秘密結社鷹の爪 THE MOVIE~総統は二度死ぬ~』では、2008年NY国際インディペンデント映画祭に正式出品され、二部門を受賞しています。
「アニメって、基本的に原作があって、有名声優が付いて、ようやくアニメファンの間で話題にのぼるのに、僕の作品の場合、原作・島根のおじさん、監督・島根のおじさん、声優・島根のおじさん、つまり全部僕。だからアニメ業界ではぜんぜん話題にならず、黙殺されました。Flashアニメーションをテレビで放送するなんてこと、誰も常識としては受け入れられない時代。叩かれましたしね、アニメを安売りするなって」
そんな厳しい状況の中でも製作を辞めなかったのには、何か理由があったんですか?
「真っ先に評価してくれたのが、あの『東京ゴッドファーザーズ』の今敏さんで、「これはすごいアニメだ」って言ってくれたんですよ。それが嬉しかった。超絶リアルアニメを作る人が、こんな超絶適当アニメを絶賛するっていうのが驚きで。ひょっとするとアニメでこのままやっていけるかもしれないなって思ったのはそれがあったからなんですけど。
うちの社長が僕の作品に惹かれたのは「おもしろいのはもちろんだけど、大量に、早く作れる」から。大量に早くっていうのは、映画やテレビ業界ではやらないことだし、やりたくもないこと。だから、今でもアニメ業界からは全く評価されない状況ですよ。でも絶対にこういう時代はくると思っていたし、島根で自分ひとりで始めたのも、マイクロプロダクションというひとりや数人で作る映像が、テレビや映画ではなく携帯やネットの隙間を埋めていくだろうと思っていたからで。その時代は意外に早くきたなというのが正直なところなんですよ」
FROGMANさんと椎木社長。ふたりそれぞれが時代を予見し、自分の感覚を信じて動いてきた結果が今のDLEを作っています。後編では、フリーのアニメ作家ではなく、会社に所属しものづくりをする心情や、これからの会社の使命に迫ります。