みなさんは落語を聞いたことがありますか? 落語は、衣装や舞台装置などをほとんど使わず、身振り手振りと話の巧みさだけで観客を楽しませるシンプルな芸能。話の最後に「オチ」がつくのが特徴です。
落語家の始まりは、室町時代末期から安土桃山時代にかけて戦国大名のそばに仕え、話の相手をしたり世情を伝えたりする「御伽衆(おとぎしゅう)」と呼ばれる人たちのことなんだそう。江戸時代に入ると有料で噺を聞かせる人物が登場し、寄席が誕生したということです。
さて今日は、そんな伝統ある落語界で活躍する若手落語家、瀧川 鯉斗(たきがわ こいと)さんにインタビュー。落語界屈指のイケメンとも言われる鯉斗さんですが、若かりし頃には名古屋で暴走族の総長を務めていたという異色の経歴をお持ちだというから驚きです。一体どのような経緯で落語家の道へ足を踏み入れたのか、その奇特な人生と、落語への熱い思いに迫ります。
暴走族の総長が落語家に?
−鯉斗さんは若かりし頃に大変インパクトのある人生を送られていたと伺っていますが、一体どういった経緯で落語家になったのですか?
「実は元々、役者を志して上京してきたんです。当時17歳か18歳でしたが、当然役者だけで食べていくことはできないので、新宿の飲食店のアルバイトに応募しました。そこのオーナーがミュージシャンで渡辺プロダクションに所属している方だったんです。僕が役者志望だと知ると、『明日から来い』と言ってくれて。そうしたらある日、その後僕の師匠となる瀧川 鯉昇(たきがわ りしょう)さんがそのレストランで落語独演会をすることになったんです。オーナーが『役者やりたいんだったら落語くらい知っておけ』と早上がりさせてくれて、その日初めて落語を見たんですよ。
そのとき師匠がやったのは『芝浜』。それを見てすぐに弟子入りさせてくれと頼み込みました」
−すぐに!?
「打ち上げの席で『弟子にしてください!』って。師匠がひとりで何役も演じるところに感激してしまって、とにかくすぐ弟子入りしたいと。でもなんせ落語を全く知らない状態だったので、『ひとまず落語を見て、それでもやりたければまた来なさい』と言われました。東京には上野の鈴本演芸場、浅草演芸ホール、新宿末広亭、池袋演芸場という4つの寄席*があるのですが、そこで20回くらい落語を見たあとに再び師匠の元を訪ねました」
*寄席:落語・講談などを演ずる、演芸場。ほぼ毎日昼席と夜席の公演があり、一回の公演に10人ほどの落語家が出演する。寄席では落語だけでなく、色物(いろもの)と呼ばれる漫才、漫談、奇術、紙切り、大神楽なども楽しめる。
−すごくドラマチックですね。落語のどんな部分に魅かれたのでしょう。
「役者は複数人で舞台に上がりますが、落語はひとりで演じきるところですね。舞台の大小に関わらず、高座さえあればそこでどんな落語もできてしまうというところに魅力を感じました。ようは座布団1枚あれば成立するんです。
それから、やるべきことが明確だという点でも自分に合っていたと思います。というのも、実は上京してきたばかりのとき、役者の養成所に入っていたんですが、ボイストレーニングや演技など決められた時間割を闇雲にこなしていくことに違和感があり続きませんでした。落語の世界は役者の世界に比べれば、いわゆる修行的なものがあって、これができれば次のステージにいけるなどやるべきこととその先の展開が明確なんです。自分の努力次第で次に進めるるという点で自分にとってはとてもシンプルに感じられたんですよね」
−そもそも最初に「役者になりたい」と思ったきっかけはなんだったのですか?
「暴走族に所属していると、たむろする場所があるじゃないですか。そこに夜な夜な通って、集会に顔を出している中でふと思ったんです。居心地はいいけれどずっとここにいたらだめなんじゃないかと。そのときは建築現場で仕事をしていたのですが『俺は将来何がしたいんだろう』って思ったときにずっとこの仕事ではないなという思いもありました。そう思っていた頃に、映画『うなぎ』を見て急に役者に憧れたんですよね(笑)」
役者になりたいという思いを抱いた鯉斗さんは、上京することを即断したそうです。
「総長である僕が急に『東京へ行く』というものだからまわりはすごいびっくりしていました。かなり熱心に引き留めてくれたんですが、もう自分の中では本当にやりたいのは役者だ! となっていたので決意は揺らがなかったですね。宣言した2ヶ月後には引退暴走していました(笑)チームみんなが集まってくれて、かなり派手にやりましたね」
−ドラマの世界みたいですね…!
「最初は引き留めていた仲間たちも、僕の決意が揺らがないと知ると今度はすごく応援してくれるようになりました。でも僕が弟子入り後、初めて習った『新聞記事』という噺を後輩に披露したら、一生懸命聞いてくれたんですけどやっぱりちょっと難しかったみたいで、『先輩、俺には無理っす!』って言われましたけどね(笑)」
運命的な師匠との出会い
−先ほどの話に戻るのですが、落語界というのは「入門したい」と思ったらすんなり入門させてもらえるものなのですか?
「人や時期、状況によって変わりますね。うちの師匠はあまり弟子を取らない人なのですが、人によってはどんどん弟子を取るということもありますし」
−弟子入りとは具体的にどういうことをするのでしょうか。
「入門するとまず『前座見習い』になります。このときはまだ楽屋には入れず、師匠や兄弟子のかばん持ちや雑用をして過ごします。最初の階級である『前座(楽屋入り)』になるためには、落語の稽古だけでなく、着物の着方やたたみ方、鳴り物の稽古などを修めないといけません。これらができるようになって師匠から許可が出れば前座となって楽屋に入ることができます」
「前座」になった後は「二ツ目(ふたつめ)」という位を目指すそうです。二ツ目になると修行の期間は終わりで、独り立ちすることになります。最終的に目指すのは、寄席のプログラムで一番最後に出る資格をもつ「真打ち(しんうち)」という位。真打ちになると弟子を取ることもできるんだそうです。
−見習いから前座になるのに、どのくらいかかるものなのですか?
「僕は一日も早く楽屋に入りたくて一生懸命やってたんですけど、なかなか前座にしてもらえなくて。2年くらいずっと見習いでした。でもよく考えたら入った頃は前座が少なかったので本当はすぐ楽屋に入れたはずなんですよね…(笑)
これは後日談なんですが、師匠には『お前にはあえて水とか発破かけてたんだ』と言われました。本気かどうか試していたと。逆を言うと、それだけ目をかけてくれていたということなんですよね。師匠は本当に面倒見がよくて、太鼓の稽古も新聞紙を丸めてバチに見立てて教えてくれたり、着物のたたみ方も直接教えてくれたんです。念願の楽屋入りを果たしてからはとにかく楽しくて。前座仲間や後輩もいるし、4年間ずっとその空間にいるわけなので仲間意識もかなり強くなります」
前座になると、今度は少しずつ落語を覚えていかなくてはなりません。その方法は、「師匠が話すの聞いて覚える」というもの。人によってやり方はまちまちだそうですが、鯉斗さんは書き取ったりはせず、ひたすら耳だけでお噺を覚えていったそうです。
「その方が忘れないと師匠が言ったので。稽古は師匠から受けるので、基本的に師匠の教えで育つんですよ」
−修行中の印象的なエピソードなどはありますか?
「いろいろあるんですけど、初めて落語を勉強したときのことはよく覚えています。先にもでた『新聞記事』という噺なんですが、暗記ができたら稽古すると師匠に言われて一生懸命覚えたんです。その出だしが『付け焼き刃は剥げやすい』というものなんですが、いざ師匠の前で話すというときに緊張してしまって『つけまつげは剥げやすい』と言ってしまって。そうしたら師匠が『それ教えてない、だけど合ってる』って(笑)」
−(笑)初心者はこの落語から学ぶ、というようなものがあるのでしょうか?
「あります。落語にはいろいろなジャンルがあって、たとえば『新聞記事』は『オウム返し』といって、賢人に教えられたことを同じように話そうとするけれどうまくいかず失敗するというパターンのもの。オウム返しは最初に習うジャンルですね。同じジャンルに『子ほめ』や『道灌(どうかん)』といったものがあるのですが、やはり序盤に勉強しました。慣れてきたなと師匠が思ってくれたら、次の噺を教えてくれます。そうやって徐々にステップアップしていくイメージですね」
常に師匠や同門と行動を共にする修行生活。しかも、普通は入門する前から50〜60席は寄席を見てるというのが当たり前の中、ろくに落語を見たこともない状態で突如落語の世界に飛び込んだ鯉斗さんです。ご本人いわく“マイナス100の状態から入った”わけですが、つらいと感じることはなかったのでしょうか。
「確かに、今振り返って客観的に考えてみると、修行はやっぱり並大抵のことじゃないなって思います。プライベートの時間もほとんどないわけですし。でもやっているときは全然そんなこと思わなかったですよ。家族みたいなものなので、かばん持ちがやだなあなんて思ったことがないです。むしろついて行けば、新しい何かを教えてくれるんだと思ってわくわくしていましたね」
当時を思い返す鯉斗さんの表情はとても少年的で、その言葉に嘘がないことが窺えます。そして約2年の見習い期間を経て、ついに鯉斗さんは前座デビューを果たしたのです。
突然訪れた前座デビュー
「前座の出演する時間を『開口一番』と言いますが、あれって前座同士で話し合って今日誰がやるかというのをその場で決めるんですよ。なので、ある日いきなりお前行けって言われて突然上がることになるっていう(笑)
もう、喉がキュッとなって、声が出てこないんですよ。緊張のしすぎで。うまくやらなきゃというより、とにかく最後まで話し切らなくちゃという必死さでやり通しましたね。終わったあと師匠に『すいません、途中忘れちゃいそうでした』と報告したら『そんときはできませんでしたって謝ってから降りてこい』って言われたのもよく覚えています(笑)」
見習い期間が長かっただけに、その夜は興奮状態だったと当時を振り返ります。
「『ついに上がったぜ俺!』と大興奮でした。『俺、師匠みたいに話してるのかな』って思ったりもして。師匠がやっていることをやっているんだなと思うと、本当に嬉しかったんですよね」
前座となって噺をするようになってからは、昔の仲間が聞きに来てくれることもあったそうです。
「あるとき小遊三師匠のかばん持ちをしていたときに地元の近くの会場で前座で出ることになって、そのことを昔の仲間たちに言ったんです。で、行ったら駐車場に大量のバイクやら車やらが止まっていて…僕が舞台に出て行ったらどす黒い声援がワーッと上がるっていう(笑)見たら、最前列の3列くらいが仲間たちだったんですよね。
みんな最初は前のめりで聞いているんですけど、やっぱり難しかったみたいです。でも小遊三師匠も手馴れたもので、難しいかなという箇所は一度噺を止めて『ここわかるか?』って確認しながら進めていました(笑)」
−卒業した仲間の勇姿を見にみんなで駆けつけてくれるなんて感動的ですね。
「嬉しかったです。でももうバイクでは来ないでって伝えました(笑)」
五感を使って人生の舵を切る
鯉斗さんのお話を伺っていると、人生における舵きりの潔さと展開の早さに驚かされます。その決断力の源はどこにあるのでしょうか。
「僕はダメだと思ったらもうすっぱりやめますし、事前にあれこれ考えて何かをやるということはないんですよね。基本的に五感で感じたことしかしないので」
−これはダメだな〜というのはどういうタイミングで判断するのでしょうか?
「テンションが上がらない空気を感じ取ったポイントですね。そこからはすぐに行動しちゃいます。これは良い波じゃないなって。
でも実は暴走族を引退するときは、本当にすごく悩んだんです。僕のいたところはすごく大きいチームだったんですが、当時そこの総長だったので、自分の一存でこのチームを解散させていいのかなって…結局はやりたいことを貫くという決断をしましたが」
−逆に落語はやめようと思ったことはありませんか。
「いやあ、ありますよ。めちゃめちゃあります。今でこそ自由にやらせてもらっていますが、前座だった頃は『前座なんだから坊主にしろ』『前座なんだから目立つことはするな』などいろいろ言われて。出る杭は打たれるじゃないですけど、落語の世界は閉じたコミュニティでもあるのでささいな小言がすごくこたえるんですよね」
それでも落語はやめずに続けてこられた理由を、鯉斗さんはこのように言います。
「僕が思いとどまったのは、うちの師匠が僕の代わりに謝っていたからです。『うちのやつが言うこときかなくてすいません』って謝っているのを見て、この人に面倒かけたらいけないなって…。
思うに、暴走族と落語界には似ているところがあるんですよ。ひとつは縦社会ということなんですけど、もうひとつはチーム内の絆を大事にするというところ。師匠と僕もちょうど親子のような年齢差なのですが、絶対に裏切らないという強い絆があります」
鯉斗さんのお話を伺っていると、落語への愛情、そして師匠との絆がひしひしと伝わってきて、自分にもその熱い気持ちが伝播してきたような気がしました。
後編では、二ツ目となった鯉斗さんの現在の考えやビジョン、そして落語とともに生きて行くという人生観まで深く伺っていきます。