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Wantedly Journal | 仕事でココロオドルってなんだろう?

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バンドマン、植木職人、そして社長 ― VICE Media Japan 代表 佐藤ビンゴのたどる数奇なキャリア

ロックバンド「54-71」のボーカルが、VICE Media Japan の代表となるまで

2016/10/28

1994年にカナダで創刊されたメディア『VICE』。音楽やアート、スポーツ、ファッションといったエンタメから時事、政治、戦争まで幅広いトピックを取り扱い、多角的に時代を切り取ることで若者からの注目を集めてきました。現在では世界36か国に拠点を持ち、月間で1億人以上が訪れるメディアへと成長。今日は、2012年に発足したVICEの日本支社「VICE Media Japan」の代表を務める佐藤ビンゴさんにお話を伺います。

佐藤さんは、1995年に結成したロックバンド「54-71」のボーカルとして活躍。その後音楽レーベル&プロモーター「contrarede / コントラリード」を設立。雑誌「Libertin DUNE」刊行や映像制作のプロデュースにも携わるなど幅広く活動してきました。そして2012年の秋「VICE Media Japan」の代表に就任。日本にローカライズしたWebメディア「VICE JAPAN」や「i-D」を運営するのみならず、紙媒体でも「VICE Magazine」や「i-D Japan」を発刊し、2016年の春には「AbemaTV」との提携をするなどVICEブランドのローカライズやオリジナル・コンテンツの開発を進めています。

VICE Japanがあるのは、北参道駅から歩いてすぐ、なんとも独特な雰囲気を持った3階建てのビル。扉を開けるとアンティークとも言えそうなエレベーターと、無造作に駐められた自転車たちが目に飛び込んできます。このビル一棟、VICE Japan のオフィスだそうです。

どこかに不安を抱えたバンド時代

バンドマンから社長へ…その振り幅を考えても非常にドラマチックな人生を送られているという印象の佐藤さんですが、ご本人いわく「自分は適当にやってきた」とのこと。聞けば大学生時代「54-71」を結成したときからずっと、そのスタンスを貫いているのだといいます。

「バンドを始めたとき、実績も根拠もなかったけど、自分たちはこれで食べていける、なんとかなるでしょという自信があったんです。結果的には、そんなに甘い世界ではなかったんですけど、当時はねじが外れてたんでしょうかね…。

バンドを始めたのは、慶應大学(SFC)時代の学友でもあり、今はVICE Japanの編集長をしている川口賢太郎に声をかけられて、いろいろな音楽を聞き始めたのがきっかけです。『こんなすごい世界があるのか、こんな世界を知れたら、自分も何かできるかもしれない』と思いました」

初めは夢中でただただ楽しかったという佐藤さん。しかし徐々に大変さを知るようになります。

「ライブをしてもお客はこないし、酷いときはメンバーの彼女が客席にひとりなんてこともありましたよ。だからといって深刻に悩むとかはなかったんですけど、こんなんじゃ食えないということで、バイトもしました。植木職人とか、警備員とか…」

−植木職人ですか(笑)

「同じようにライブとかやっていた先輩たちがその仕事をしていたので…。Hi-STANDARDの人もいたかな…? どういうわけかそういうアートとか役者とかやっている人が集まっている植木屋さんがあったんですよね。シフトを調整しやすかったのかも…。あんまりよく覚えてないんですが、とにかく僕もそこで働き始めました。

家の庭を整えたりとか、街路樹の伐採や森林の伐採もやりましたし、庭園を作るのが仕事なので、マンションの石を切ったりもしました。公園の整備もするんですよ。雲梯(うんてい)が壊れたから行ってこいとか(笑)。大学時代から4年ぐらいはやってたんじゃないかなあ」

−植木職人をやめたきっかけは、バンドが売れてきたからですか?

「いや、実はけがをしたんです。ある日電動芝刈り機で芝を刈っていて…汗を拭こうと思ってちょっとゴーグルをはずした隙に、小さいコンクリートの破片が飛んできて目に刺さったんですよ」

−えっ!?

「本当に小さい欠片だったんですけどね。なんか視界が赤いなあって思って、大丈夫かなあって思ったんですけどそのまま5分くらい作業を続けてて。やっぱり視界が赤いなあって思って、先輩に『俺の目どうなってますか?』って聞いたら『やばい!! やばいよ!!』って…。

それで病院に行ったら、『今すぐ手術をする』『失明の危険性がある』と言われてこれはやばいなと…結局失明しなかったから良かったんですけど。でも植木職人は結構激しい仕事なので、しばらく休むよう言われて。労災がおりて、まとまったお金も手に入っていたので、そのまま辞めることになってしまいました。

で、労災のお金でCDを作ろうってなって。そのあたりから人気も出始めたんですよ。なので、ケガがある意味転機になったと言えるかも…(笑)」

かなりインパクトのあるエピソードを、なんてことないことかのように飄々(ひょうひょう)と語るので取材チームもびっくり。落ち着いた立ち居振る舞いをよそに、ご本人はかなりロックな生き方をされている模様です。

さて、そのCDが発端となってツアーもまわるようになった54-71。海外をまわったときは、日本との違いに驚かされたと言います。

「日本でのツアーはいろいろとお膳立てしてもらってそこでやればいいじゃないですか。でも向こうでは平気で機材がなかったりマイクすらなかったり…。それにむこうはバーにステージが併設されているという感じなので、良い演奏ができないとみんなバーの方に行ってしまう。『パンチを出さないと』という一心でしたね」

−どのように「パンチを出す」のでしょう?

「自分なりに本気で当たり続けてると、相手もびびるじゃないですか。極端に言うと、分かり得ないことですけど、相手を殺すぐらいの気持ちで。こんなことをメンバーで話したりしてました」

海外に行けばタフになれるに違いない…そう考え、ツアーをまわっていたという佐藤さんたちですが、ときには道端で石を投げられたり、見知らぬ土地の高速道路の途中で車が故障したりと本当にハプニング続き。アメリカのモーテルで部屋を間違えてノックしてしまったときは、「全裸の黒人が出てきて殺されるかと思いましたよ(笑)」と当時を振り返ります。

−ツアーをまわる中で得られたものはなんでしょう?

「日本にせよ海外にせよ、今思うとツアーのきっかけって、それぞれの土地の人が声をかけてくれて成立することも多かったと思います。そしていざ赴いてみると、その土地の話をしてくれたり、そこならではの雰囲気や文化というのをなんとなく感じられる。ツアーにはそういう楽しさがあって、すごく良かったなと思います」

バンド休止とスパイク・ジョーンズとの出会い

人気が出てからも、この生活をいつまで続けられるのだろうという思いはどこかにあったという佐藤さん。特に、“すごい人”を超えられないという思いを強く抱いていたと言います。

「自分の声を録音して、聞いてみるとわかるんですよ。自分たちが“すごい”と思うミュージシャンたちと、決定的に何かが違う。具体的な基準はなくて、ただ『こっち(尊敬するミュージシャン)の方がすごい』と。

とはいえ、やっぱり僕は生来楽観的なので、『それでも工夫すればなんとかなるだろう』と思っていたんですけどね…(笑)」

−その後、佐藤さんはレーベル「contrarede / コントラリード」を立ち上げているわけですが、そのきっかけというのは…?

「レコードショップ『some of us』を経営していた小林英樹さんという方に日頃からすごくお世話になっていたんですが、そのレコードショップが厳しい状況にあると聞いて、川口が『小林さんを助けるぞ!』と言ったんです。色々模索をする中で、幸いにも投資をしてくれる方と出会うことができて…3人で一緒にレーベルを始めることにしました。そちらにシフトしていく中で、メンバーが他のバンドで活動しはじめたのもありバンドは自然と休止の方向になりましたね」

−特に休止宣言のようなものはなかったですよね?

「だって、わざわざ公式に言うのも、こそばゆいじゃないですか(笑)」

当時、佐藤さんは33歳。運命の波に身を任せ、はじめてビジネスの世界に足を踏み入れることとなるのです。

「お金を扱うことなど、勉強になることはたくさんありました。でも、プロモーターやいろんなアーティストのCD制作などをしましたが、必死にやれど赤字。音楽業界も下り坂でしたし、なにか違うことをやってみようかなと模索していました。そんなとき、スパイク・ジョーンズ監督の『I’m Here』という短編映画に出会って…ライセンス依頼を出したところ、非常に喜んでくれてニューヨークの自宅にまで招待されたんですよね」

くしくも、スパイク・ジョーンズ氏は当時のVICEにクリエイティヴ・ディレクターとして深く関わっている人物でした。スパイク氏から「今VICEが面白いから紹介するよ」と言われたとき、佐藤さんはまさか自分がここまで深く関わることになるとは思わなかったそう。

「正直最初は、レーベルやプロモーション活動の一環くらいにしか思っていなかったんですよね。でもVICEを見ているうちに、これは面白いなあと思うようになって。当時ネットでドキュメンタリーを発信しているところもほとんどなかったはずだし、映像自体もクールだし。これをやったら、この先なんとかなるかもしれないと思いました。ビジネスとしても、個人的にも、刺激があるものになるかもと」

VICE Japanの可能性をいち早く察した佐藤さんは、スパイク氏の誘いのもと、VICE Japanを運営していくことになります。しかし当初その話を持ち帰った際、VICEに対して少し引いてしまうスタッフもいました。

「まあ僕の説明が下手だったというのもあるんですけど、当時VICE自体も今ほど大きくなかったので…。それに資金も必要だということで、スパイク氏と出会ってから2年ほどは準備期間となりました。その後の2012年に、VICEがYouTubeとパートナーシップを組むタイミングで大きくビジネスが動いて、日本での展開を開始したんです」

運命のいたずらとも言える偶然が重なって、VICE Japanを立ち上げることとなった佐藤さん。後編では、わずか7人ほどで始動したVICE Japanのこれまで、そして今と未来について語っていただきます。

後編▶「社員からパンチを受けたいし、自分もパンチを与えたい」VICE Media Japan 代表 佐藤ビンゴが語る、チームとメディアの今とこれから

Interviewee Profiles

佐藤 ビンゴ
「VICE Media Japan」代表取締役。1995年に「54-71」を同級生らと結成。バンド活動を続けると同時に、2007年に音楽レーベル&プロモーター事業を行う「contrarede」を設立。音楽だけでなく雑誌「Libertin DUNE」の刊行やバンドの海外ツアーを通じて「Vice US」との交流を深め、2012年にはグローバルメディアViceの日本支社「Vice Media Japan」を設立。同社代表取締役に就任。

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