補助金案件でビジネスと自身の礎を築く
1998年に商工会議所と協業し、国の補助金案件を11.5億円で申請し、60%カットながら4.6億円で受注。現在のザ・ビジネスモールならびに自身のコンサルタントとしての礎を築いた。
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株式会社ゼンショーホールディングス グループIT本部 / 人財開発室
ゼンショーホールディングスは「フード業世界一を目指す」を公言していますが、世界一にチャレンジできる会社なんて、そんなにたくさんはないですし、そこで働くことができる機会は一生に一回だけだと思うと、年齢を忘れてワクワク感が湧き出てきます。 「汝(なんじ)何のためにそこにありや」自分の存在意義・存在理由(レゾンデートル)を考えながら仕事を突き詰めて世界一を目指す方々とつながりたいと思います。
フード業世界一を目指すのは、その先の「世界から飢餓と貧困を撲滅するため」そして「人類社会の安定と発展に寄与するため」こんな壮大な理念(パーパス)を掲げている組織におけるIT部門をこの先10年で現在の5倍超の規模の組織にする計画で進めています。巨大な組織になる過程での歪みや痛みを乗り越えて、有機的に機能するひとつの全体組織を作っていいくことにチャレンジします。
新卒以来、IT業界に身を置いて37年が過ぎ、前職を定年退職で卒業し、ITにかかる人事の仕事をしたい一心でここにいます。 還暦を過ぎて、皆さんの将来に関わる活動をしていることが、嬉しいですし、社内外問わず、IT技術者としてどう生きていくのかの悩みに寄り添うつもりで取り組み中です。
定年前に役職も解かれ、コロナ禍の時期に自分の人生後半戦を見つめ直して、ITコンサルティングを続けるのもありだけど、本当にそれで良いのか?と思い直していたところに偶然にもゼンショーホールディングスの求人スカウトに出会い、そこから一気に定年まで勤めあげた会社の再雇用ではなく定年退職/転職するに至った。
ITコンサルタントの実績が認められ、このままITコンサルタントでスペシャリストコースかと思うこともあったが、やはりコンサルティング部門の管理職を任されることになった。着任当初からプレイイングマネジャーとしてコンサルティングプロジェクトをリードしつつ、組織全体の業績を達成した。
管理職になっても金帰月来が続いていたが、ついに新宿の単身赴任寮に拠点を移して、都心ライフが始まる。仕事の方も業務の可視化・ITライフサイクルマネジメント・プロジェクトマネジメントオフィスを3本柱とした、コンサルティング事業を確立した。
社内認定プロフェッショナル制度が導入され、認定第1号となり、その後12年間継続して認定され、社内のコンサルタント職種第一人者として、コミュニティや研修講師としてメンバーの育成・採用にも取り組んだのであった。
ビジネスモールを軌道に乗せた後、コンサルティング部門に配属され、ERP製品のプリセールスから業務の可視化をキーに上流工程メインで活動する。時代の流れで実施したJ-SOX対応コンサルティングが大当たりして大規模案件も獲得し、大きく業績に貢献し、同時に多くの知見を獲得することができた。
当時のビジネスの主戦場は東京にあり、ということで毎週東京詣でが続く。金曜日の夜に大阪に帰って、月曜日の朝に東京に戻る生活になる。実際は日曜日の夜に戻り、月曜日9時に多摩市の客先に行ったりもしていた。振り返ると体力あったかもしれないと思う。
ERP製品のプリセールス〜業務可視化をキーに、上流工程メインで活動する。時代の流れで実施したJ-SOX対応コンサルティングが大当たりして、大規模案件を獲得。大きく業績に貢献し、同時に多くの知見を獲得することができた。
上場企業の情報子会社に転職し、親会社で制御系システム導入の超上流工程に携わる。ユーザ仕様を定義し、システム仕様に展開して各ベンダーに発注し、ベンダーコントロールを行った。 ・中東の国営鉱山における採掘制御、選鉱制御、人事会計の各システムを担当。
中東の国営鉱山における採掘制御、選鉱制御、人事会計の各システムの要件定義から基本設計を担当し、メイキングは外部委託をし、そのベンダーコントロールを担当。阪神淡路大震災後に欧州の元請け会社のエンジニアがインスペクションにやってきたが、三宮の惨状に言葉を失いながら、きちんとインスペクションを行い、合格したことを思い出す。
海外プラントの仕事では各国からトレーニーを受け入れ、教育も担当した。中東の文化があるだろうと、礼拝室を用意するも海外では戒律が緩むのか、お祈りをすることはなかったような記憶がある。勤務場所は工場内なので、ランチは仕出しの弁当を食べることになるのだが、ハラール食の弁当業者を見つけて仕出しを頼むもそれを食べることなく、普通にパンなどを食べて「日本のパンはリーズナブルだ。」と言われたことも思い出す。
韓国の製鉄所におけるプロセスコントロールシステム案件にて、基本設計を行い、下流工程のRFPを作成し、外部委託先のベンダーコントロールを担当する。その韓国の製鉄所の担当者が新卒で入社した会社で一緒に仕事をしたKさんだった!お互いに転職してまた巡り合うとは何ということかと驚いたことを思い出す。
新卒で何も考えずにその後妻となる女性と同じ大阪で働くということだけで大阪肥後橋のソフトウェアハウスで社会人のスタートを切った。 新入社員研修で躓きながらも何とかFORTRANを身につけて、1987年から1991年の間、韓国の製鉄所にて、システム開発のスーパーバイザを務める。現地スタッフの
入学後ひょんな弾みでカナヅチのくせに体育会漕艇部に入部するが、1回生夏休み前のレースで審判艇に追い抜かれる惨敗で挫折。その後バイトに明け暮れる生活になり、2回生で普通&自動2輪免許を取得し、3回生の夏についに中古で購入したアメリカンバイク YAMAHA XL400にまたがって北海道ツーリング決行。ツーリングと言いながら、利尻島での怠惰な2週間を含めて1か月
1998年に商工会議所と協業し、国の補助金案件を11.5億円で申請し、60%カットながら4.6億円で受注。現在のザ・ビジネスモールならびに自身のコンサルタントとしての礎を築いた。