約10年前。25歳無職・フリーターだった僕は愕然とした。就職活動の定番であるリクナビ・マイナビに登録できなかったからだ。
今でこそ「第二新卒」という言葉が一般的になり、通年採用する企業も増えてきたが、当時は新卒至上主義がはびこり、僕のような”大学を卒業しただけの人”に対して世間の目は冷たかった。
それでも今は小さいながらも年商1億円を超えるIT企業の社長業を営んでいる。もちろんこれは僕の努力だけではなく、人に助けられたところもあるし偶然が重なった結果でもある。それでも言いたいのは、「無職・フリーターでも大丈夫」ということだ。
絶望の淵に立たされていた当時の僕へのメッセージだけでなく、まさに今無職・フリーターで苦しんでいる方に対して、少しでも勇気や希望を与えられるよう、この記事を書こうと思う。
読んでもらいたい方
- 就職活動に悩んでいる学生の方
- 就職活動に苦戦する無職・フリーターの方
- 短期離職を経験しこれからのキャリア形成に不安がある方
- いつか起業してやろうという野望のある方
"新卒"という肩書を捨てて得たものは「絶望」
IT業界から逃げた先にある一筋の"闇"
大学ではユビキタス・コンピューティング、まぁ簡単に言うとITを専攻していた。自分で言うのもあれだが、割と真面目に学校に通い、授業を受け、研究活動にも熱心だった。
それでも上には上がいて、圧倒的に敵わない人がいる。「01110101100101…」という謎の文字列を見て「ふむふむ」と頷いている人がいたり、ソースコードを見て「これは美しくない」と美学を語る人がいて、こんな人達の脳内は全く理解ができなかった。
ITという領域で社会に出ても通用しないと察した僕は、一大決心をした。司法書士資格を目指すことにしたのだ。が、これが絶望の第一歩だった。
合格率3%の司法書士資格への道
司法書士とは、不動産登記や商業登記、成年後見を中心とした士業である。2002年からは簡易訴訟代理権も付与され、140万を超えない請求事件について訴訟を起こせるようにもなった。弁護士と違い受験資格がないため窓口が広い分合格率は低く、僅か3%(正確には3%満たない)の鬼門である。
それでも僕はアンパンマンばりに正義感に溢れ、司法書士という職業に多大なる希望を持っていた。資格を取って人助けをするんだと意気込み、毎日12時間以上勉強に明け暮れた。
しばらくは大学とダブルスクールで資格勉強をしていたが、在学中の合格は叶わず、そのまま流れるようにフリーターになった。周りは名の知れた大企業に続々と就職する中、1人取り残されていた。(大学に進路を提出するのだが、「その他」に分類されたのは同期で1人だけだった)
3回目の不合格、失望、蝉の声。
それからの2年はあっという間に過ぎた。だって、勉強しかしていないのだから。周りが研修を受けそろそろ独り立ちしようかという時、僕はまだスタートラインにも立てていなかった。
そして3回目の受験。これがまた残念なことに(本当に本当に残念なことに)、全然惜しくない点数で落ちた。あと1点でとか、このミスさえなければとか、そんなレベルじゃない。「箸にも棒にも掛からない」とはこの事かと、受験会場である神奈川大学を後にしながら響く蝉の声が今でも頭に残っている。
もう1年勉強するという選択もあったが、周りからの後押し(?)もあり、司法書士を諦め就職することにした。
社会の底辺からの脱出
「就職することにした」と言って就職できたら苦労はしない。就職活動の定番であるリクナビ・マイナビに登録するためには、卒業年度を選択する必要があるのだが、卒業して1年以上経過している自分の卒業年度の選択肢はなく、登録さえさせてもらえなかった。あ、ここが社会の底辺なんだ、と実感した。
”新卒”でも"中途"でもない自分は一体"何者"なのかわからず、"第二新卒"という言葉にたどり着くまでに数ヶ月かかった。それでも"第二新卒"の採用窓口は狭く、求人は少なかった。
現在は従業員数160人を超える中堅に位置づけているが、10年前は5名程の規模であった株式会社UZUZに藁にもすがる気持ちで登録し、エージェントの協力を得てようやくまともな就職活動がスタートした。
そして25歳無職・フリーターである僕は、なんとか内定を獲得した。その一報をもらった僕は、大宮駅で号泣した。それ程までに追い込まれ、社会に絶望を抱き、苦しかった。けど、これで終わらなかった。
不動産ベンチャー企業での軍隊訓練
過酷な環境でがむしゃらに働く
入社した会社は不動産ベンチャーで、僕が20番目の社員であった。まさに成長期に差し掛かったところで、仕組み化もできていない中で仕事量は増え、多くの社員は残業を顧みずに働いていた。僕も例外ではなく、月200時間は残業していたと思う。
また、いわゆるトップダウンの会社であり、社長が右と言ったらつべこべ言わずに右を向け、そんな風潮があった。当時の会社は、まさに軍隊に近いような空気感が漂っていた。
それでも不満はなかった。やっと掴んだ社会人デビューだ。仕事ってこんなもんだろうと思い、自分の働き方に違和感を抱くこともなかった。これだけ頑張れたのは、きっと司法書士に落ちた劣等感や、周囲の同期から取り残された焦りがあったからだろう。
Point.
失敗を糧にする。でも遅れは時間で取り戻すしかない。
消えた社長室
入社して3ヶ月、社長室に異動になった。と言っても当時「社長室」という部署はなく、まさに"劇団ひとり"状態であった。採用が主業務であったが、当然マニュアルもなく、社長も外出が多く、誰にも相談できずに手探りで仕事をする事がしばらく続いた。
とはいえ、3ヶ月前までは無職・フリーターである。そううまくいくはずがない。今振り返れば怒られて当たり前だが、勝手にエージェントを呼びつけて採用相談をしてみたり、勝手に条件を突きつけて契約を締結しようとしたり、もうめちゃくちゃだ。
感覚的には、毎日怒られるために出勤していた。成果が出なくても怒られるし、何か行動をしても怒られる。行くも帰るも行き先は地獄だ。ましてや、軍隊のような会社で、入社3ヶ月の新人がいきなり隊長に怒られるその恐怖たるや、想像に難くないだろう。
そんな矢先、経理部への異動が決定した。社長室に配属されて僅か1ヶ月の出来事だった。社長に見切られた僕に生き残る道はあるのだろうかと、呆然とした。
最短でマネージャーに昇格
経理部に異動すると、まず同僚がいる事が嬉しかった。多少なりともマニュアルがある事に安心した。わからない事を聞ける人が隣りにいた。また「経理部」というのが良かった。数字を扱う仕事なだけに正解・不正解がわかりやすく、成果が明確だったからだ。
少しずつ仕事のコツを掴んで来ると、そこからは早かった。総務部・情報システム部も兼任となり、バックオフィス全般に関わることになった。一度は見放された社長からも徐々に信頼されるようになり、こちらから業務改善を提案できるような立場にもなっていった。
そして入社して1年が経ち、当時最短の早さでマネージャーに昇格した。ようやくキャリア形成のスタートラインに立てた。それと同時に、この会社での役目を1つ終えた、そんな感情も芽生えた。
人材紹介会社・コンサルティング会社を経て…
WeWorkにて
短期離職者としての就職活動
1年2ヶ月という短い期間で1社目を退職した僕は、"元フリーター"に加え"短期離職者"というレッテルを貼られた欠点だらけの履歴書を持って就職活動することになる。それでも、2回目の就職活動は意外と苦労しなかった。
外の会社に目を向けてみると、どうやら僕は相当働いていたらしい。そこでようやく自分を客観視してみると、休みも顧みずに働いてきた事、最短で昇格した事、システムを導入した事、業務を仕組み化した事など、胸張って話せるエピソードがたくさんあった。
もちろん短期離職者であるが故に求人は決して多くないが、それでも面接までこぎつければ高い確率で内定を獲得できた。最終的には3つの内定を頂き、その中から第二新卒を中心とした人材紹介会社に入社することに決めた。そう、あの株式会社UZUZだ。
Point.
1社目はどこでも大丈夫。でも、必ず最短で成果を出すこと。
人材紹介会社でのキャリアステップ
人材紹介会社で成果を出すのには、そう時間はかからなかった。1社目で染み付いたハードワーカー気質はそのままに、3つの部署を掛け持ちしてきたユーティリティな働き方も自分の活躍の場を広げることになった。
入社してすぐにマネージャーに昇格し部下を持ち、キャリアアドバイザー・法人営業だけでなく、大阪支店立上げ、マーケティング、新規事業企画など、とにかくあらゆる仕事に関わった。
そんな矢先、意外なところから次のキャリアへの道が開かれた。
「あなたの論文を読みました。話を聞かせてください。」
突然知らないおじさんからそのようなメッセージが来て、最初は間違いだと思った。しかし、話を聞いてみると、どうやら僕の論文を読んだらしい。なぜなら僕が学生時代に執筆した論文のテーマは「雰囲気のデジタル化」だからだ。こんな異色な論文、人違いなはずがない。
それがきっかけで、僕はコンサルティング業界への転職を決意した。村田製作所の新規事業が論文のテーマに類似しており、その事業化にコンサルタントという立場で関わるためだ。3年の支援を経て、「NAONA」というサービスでリリースされた。
Point.
何事も努力は思いもよらない形で結果に繋がる。
コンサルティング業界への転職と独立
コンサルタントという仕事は、僕にとって”汎用性”に更に磨きをかけることになった。元々ベンチャー企業で兼任も多かったため取り組んだ事のない仕事で一定の成果を上げることには長けていた。そこにロジカルシンキングと資料作成スキルが身につき、3つの会社、それも全く異なる業界を経験したことで、これから何の仕事に就いても食べていけるんじゃないか、そんな自信が湧いてきた。
コンサルタントを3年勤めた後、当時の上長に会社の立上げに誘われた。特に計画はなかった。けど、その場で「YES」と回答した。その上長は、僕が見る限り最も仕事ができる人間で、この人の将来をもうしばらく間近で見てみたかった。でも、それは長く続かなかった。
Point.
他人に選ばれる人になる。これがキャリア形成の近道。
ワークログ株式会社創業とこれから
ワークログ創業メンバー
働く上での制約を取っ払いイキイキと働く人を増やす
人生の大半の時間を費やす仕事に対して、モチベーションの低い人が多すぎやしないか。社内でも屈指のハードワーカーである3人はそこに課題意識を持ち、時間や場所などの働く上での制約を取り除くことで、仕事に対してモチベーションを抱き、"イキイキ"と働ける人たちが増えると考え、新会社を立ち上げることにした。
自社サービスの企画・開発を進めながらも、開発資金や生活費を稼ぐ必要もあったため、コンサルティングや開発等の受託案件も並行して行っていた。元々受託案件の経験があるメンバーであったため、創業時からマネタイズは問題なかった。何なら前職よりも年収は上がり、え?独立ってこんな感じなん?と拍子抜けだった。次の出来事が起きるまでは。
代表、突然の退任
創業して1年半、代表が別会社の役員に就任することになり、退任することになった。突然とはいえ、予兆はあった。その決断をどうすることもなく、副社長であった僕がロケットえんぴつ方式で代表に就任することになった。
社長になっている人は皆、優秀で仕事ができ、明確なビジョンや志を持ち、夢に向かって邁進しているような人たちだと思っていた。こんなにもあっけなく代表の座に就く事があるのかと、妙に冷静だったのを覚えている。それでも前に進むしかなかったのだ。
前代表に管理業務を一任していたこともあり、会計、人事、労務、登記等の業務を慌てて引き継いだ。自分だけでは知識がなかったので、1社目の経理部の上長であった公認会計士や、一緒に受験勉強をしていた司法書士等、とにかく自分のあらゆる人脈を活用して助けてもらった。過去のキャリアがこのような形で活きてくるものなのだな、と痛感した。
Point.
会社・職場が変わっても、人脈は引き継がれていくもの。
神奈川県新型コロナウイルス感染症対策本部への参画
畑中・阿南両統括官との打合せの様子
代表が退任する少し前から、僕は神奈川県庁の新型コロナウイルス感染症対策本部の企画・開発に携わっていた。2020年3月、統括官である畑中洋祐氏に呼び出され、医療の知識もなく、何をやるのかも知らず、誰のことも知らない中で、PC1台持って県庁に乗り込んだ。竹槍1本持ってミサイルに立ち向かう日本兵の気持ちだった。
ここでも僕のユーティリティさ加減は光った。最初はコンサルタントとして企画や戦略立案に携わっていたが、その後kintoneの知見を買われ開発に携わることになった。感染防止対策取組書・発熱等診療予約システム・後方搬送支援システム・抗原検査キット配布事業など、様々な仕組みの開発を進めた。
この時、僕は誰かの側近に就き、大きな課題に対してカメレオンのように状況に応じて必要な役割に"擬態"するような働き方が最も輝くんじゃないかと思った。そこで会社の肩書とは別に、個人のキャッチコピーを設け、「あなたの右腕」と自己紹介するようになった。
キャッチコピー(直筆)
Point.
自分のあらゆる知見を活かし、権力者の右腕人材になる。
神奈川県DX推進アドバイザーに就任
コロナ対策本部との契約は3年を超え、2023年7月には神奈川県デジタル戦略本部室のDX推進アドバイザーに就任することになった。
ここまで来ると、10年前無職・フリーターだった事などもう関係ない。もっと言うと、「ワークログ株式会社の代表取締役」である事も関係ない。「山本純平」個人としての実績・知見(あと多分キャラクターも)が認知され、もはや所属や肩書で評価する人はいない。
一度社会の道から逸れると、所属や肩書がなくなって不安になる。ただし、それは自分の名前で勝負するきっかけにもなる。大企業に勤める事は決して悪いわけではないが、自分の名前で実績を積んでいくことが、本当の安定なのだと僕は思う。
Point.
自分の名前で仕事をする。自分の名前で勝負する。
自治体DXとキャリア教育を目指す
さて、代表に就いて3年、会社としては5期目を迎えたところだ。これからは自治体DXとキャリア教育に携わりたいと考えている。
自分自身、就職活動には苦労してきた。とはいえ、大学や就職活動を通じて仕事の内容が理解できるわけでもないし、そりゃ苦労して当たり前だろとも思う。だからこそ、大学での"勉強"と、社会での"仕事"を橋渡しする役割が必要なのだ。
またコロナを経て、自治体内で一定の成果が認められたことと、自治体が変わらなければ日本は変わらないという小さな使命感も湧いてきた。そのような自治体に、優秀な若手層をもっと送り込みたい。そう、無職・フリーターで社会に絶望し燻っているような若手人材を。
最後に
誰しも10年後は社長になれる
- 内定が出なくて焦っている学生や、
- 内定をもらえずフリーターになってしまった人とか、
- 資格勉強をしていて不安を持つ人だったり、
- 就職したものの早期退職しようか迷っているなんて人も、
きっとあらゆる仕事の悩みを人たちが世の中には溢れていると思う。でも安心してほしい。10年後には社長になっている可能性がある。だって、25歳無職・フリーターで、性懲りもなく資格試験に3回も落ち、親には山本家辞めろと言われ、ど真面目にどうやったら山本家を辞められるか民法を勉強したこともあるようなヤツが、いま社長をやっている。家族を辞めろって言われた事がある人がいれば、是非メッセージほしいくらいだ。
会社ブランドでも肩書でもなく、個人名で働くこと
もちろん全員に社長になれと言いたいわけではない。企業に勤めても良いし、フリーランスや個人事業主でも、働き方や雇用形態は何でも良い。
ただ、僭越ながら一言メッセージを残すのであれば「個人の名前で仕事をすること」、これを意識してみてほしい。会社に帰属していようが、どんなプロジェクトにアサインされようが、仕事の成果や人脈は個人に帰属する。それが蓄積されていれば、キャリアは自然と切り開かれていくものだ。