――本当に納得できる選択か熟考を重ねた先での挑戦
その選択が自分にとって納得のいくものであるかどうか。人生の重要な分岐点で柴田は必ず自問した。新卒の就職活動がそうだった。大学四年、大学院への進学との間で悩み、就職戦線には出遅れたが何とか卒業前の秋には一部上場企業の内定を得た。しかしあえて大学に留まり、もう一年就職活動を行うことにしたのは、本当にその選択でよいか考えた末の結果だった。そして翌年、数多くの内定の中から半導
体製造装置のトップメーカーでの営業職を選んだ。
「迷いましたが、最後は若手にどんどん仕事を任せてもらえるような社風の会社を選びました。何年も費やし数億円する装置を何十台も受注する半導体製造装置の営業はダイナミックで仕事はハードです。人もお金もかけたプロジェクトであっても、競合に負ければ売り上げはゼロ。必ず受注しなければという雰囲気のある中で、営業は特別な存在でした」
そんな柴田にプルデンシャル生命の誘いがあったのは入社3年目。ちょうど国内の大手クライアントから欧州のクライアントに担当が変わった頃だった。
「純粋に職業として惹かれました。前職においては、目の前の技術者のお客さまに喜んでもらうことがお客さまと最前線で向かい合う営業のやりがいでした。でもそれが自分の評価にダイレクトに反映されるわけではありません。その点ライフプランナーは目の前のお客さまに喜んでもらい、感謝され、それがそのまま評価になる。自分が理想とする営業の姿がありました」
しかしこの時も柴田はその選択が正しいか悩み、留まることを選ぶ。
「前職はどのクライアントを担当するかによって、営業としての成果が左右されました。当時は担当替え直後で、簡単には受注に結びつかないとてもきつい時期。そこから逃げるように転職するのが絶対に嫌で
した。まずはその状況を乗り越えることが自分にとって大切だと考えたのです」
――経験と知識のシェアによって深みが増していく職業
そんな苦しい時期を無事に乗り越えた入社5年目。結婚して妻が新たな命を宿した頃、柴田の携帯電話が鳴った。
「営業所長から『久しぶりに会いませんか』と。契約者としてもお世話になっていたのでプルデンシャル生命はもう自分が加入している保険会社としてしか認識していなかったのですが、そこでまたスイッチが入りました。一度は真剣に転職を考えた会社です。改めて支社の雰囲気に触れて、今度は自分から志願する形で入社を決めました」
柴田の職場となったのは東京第一支社。与えられた席の隣には社内の営業コンテストで数千人の中から2年連続で1位に輝いた社内で有名な先輩が座っていた。
「隣に雲の上の存在がいるような感覚でした。でも入社当初は言葉を交わすことはほとんどありません。とにかく支社長に教えられた基本に従って、コツコツと契約を積み重ねる毎日でした。いつかは先輩たちに追いつければと目の前の商談だけに集中していました」
入社して半年、妻が長男を出産した際に驚きがあった。
「子供が生まれて二日後、仕事を終えて家に帰るとベビー服の出産祝いが届いたんです。贈り主はなんと隣の席の先輩です。仕事を立ち上げることに懸命だった時期で、子どものことはもちろんプライベートの話を伝える余裕はありませんでした。驚きとともに嬉しさがこみ上げてきました」
いつどんなタイミングで何をしたら相手がどう感じるか。営業のヒントとなりそうなことをその後も先輩はことあるごとに背中で見せてくれた。入社から数年、さらにマーケットを広げるために、柴田は先輩に直接指導をお願いした。
「商談まで同行してさらに自分との差を感じました。準備が完璧で、お客さまに礼を尽くす姿勢が徹底
されている。たくさんのことを学びましたし、この時期に身につけたことが今の営業としての自分を支えてくれています。ただその営業スタイルのなかには先輩だから強みとして発揮できることも多くあると気づきました。次第に、真似できることは取り入れながらも、自分の強みが何かを認識することに集中し、自分らしい営業スタイルを追究するようになりました」
現在、柴田は社内でMDRTプルデンシャル会の理事メンバーとして、ライフプランナーが相互研鑽する場を提供する役割を担っている。(※インタビュー当時)
「ライフプランナーは専門性を高めることでより信頼してもらえる職業です。会社には互いに知識と経験をシェアする文化がありますし、フルコミッションの報酬を自己投資するなど仕事の奥行きを深める方法を自分の裁量で自由に選べます」。
80歳まで続けたい仕事、と柴田は続ける。
「生命保険業界ではプルデンシャル生命のクオリティの高さが認められるようになりました。次
はライフプランナーという仕事の、職業としての社会的地位が上がるように貢献したいですね」
●柴田 浩太郎(東京第一支社)
2003年10月 プルデンシャル生命入社(前職 ラグジュアリーブランド)
※本インタビューは、2020年12月時点の情報です。