人間が「死んだ」と判定されるとき、その基準として心臓の停止が用いられることがあります。しかし、心臓が止まったことそのものが、直接的に死を意味しているのでしょうか。むしろ重要なのは、心臓の停止によって血液の循環が失われ、身体全体を一つにまとめていた連携が維持できなくなる点にあるように思えます。心臓は生命のスイッチではなく、循環を成立させる装置であり、その循環が失われたとき、人間という全体は成立しなくなるのです。
この視点に立つと、死とは要素が壊れることではありません。心臓が止まった直後に、すべての細胞が一斉に消えてしまうわけではなく、しばらくの間は生き続けている細胞もあります。それでも私たちは、その状態を人間の死として扱います。これは、個々の要素が残っていても、それらを一つの存在として束ねていた連携や同期が失われたからだと考えられます。死とは破壊ではなく、連携がほどけていく現象だと言えるでしょう。
人間の身体は、血液だけで成り立っているわけではありません。細胞内液や細胞間液、電解質、神経、ホルモン、そして水を多く含む結合組織など、無数の流れが重なり合って存在しています。これらは命令を伝えるというよりも、状態を共有し、全体を同じ方向に揃える役割を果たしています。こうした多層的な連携によって、無数の細胞は一つの人間として振る舞うことができるのです。
意識についても、同じ構造があるのではないかと思います。意識は、肉体に魂が宿ることで突然生まれるものではなく、細胞や分子、さらに小さな要素にまで遍在しているものだと考えられます。人間の意識とは、それら無数の微小な意識が、循環と同期によって束ねられた状態にすぎません。血液や体液の流れは、意識を生み出すのではなく、意識を一つにまとめる働きをしているのです。
この構造は、会社や組織にも当てはまります。社員一人ひとりや各部門が正常に機能していても、それらを連携させる流れが失われれば、組織は成果を生み出せなくなります。情報が循環せず、判断が共有されず、意図が揃わない状態は、壊れてはいなくても、死に近い状態だと言えるでしょう。成果とは、個々の能力の総和ではなく、連携の結果として立ち上がるものだからです。
生きるとは、要素を集めることではなく、流れを保ち続けることだと思います。意識とは実体ではなく、連携と循環が生み出す状態そのものです。死とは断絶ではなく、静かにほどけていく過程であり、生命とは常に連携の中にある現象なのだと感じています。
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