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母親の会社をベースに、新発想の塗料で世界に挑む

株式会社オプティマス代表の高尾に、オプティマスという塗料を、なぜ始め、どこに向かおうとしているのか、インタビューをしてみました。


―どのような塗料ですか?

遮熱塗料に光触媒を混ぜ合わせた多機能性塗料を販売しています。中身が真空のバルーンが層を成しているので熱を通さず、建物の屋根などに塗ると室内の温度が保たれ、冷暖房の費用が抑えられます。光触媒を入れることで、汚れを防ぎ、臭いを取り除く働きも持っています。たとえば、ビンの中に正露丸とこの素材を合わせて入れるとほとんど臭いが消えてしまうんです。

病院や介護施設を始め屋内の内装塗料としても市場が期待できます。業務用だけでなく一般向けのパッケージもつくっていて、これはホームセンターなどで販売しています。製造は母が社長を務める塗料メーカーにこの素材を委託しています。


―その後はどんな人生を。

高校卒業後、大学に進学して、インターンで現地の金融機関で働きました。アメリカで9年過ごした後にいったん帰国して、東京のIT関連会社に就職しました。外資系企業向けの営業を担当して、成績もよかったんです。東京の生活も満喫してました。
働いて5年経ったころ、事業を再開した父から「タイで中古機械を売るので手伝ってほしい」と頼まれて。最初は気が乗らなかったのですが、会社も「有給で休んでいいからまた戻ってこい」とまで言ってくれて。それなら、と1年間休職して行くことにしました。

はじめはなかなか話が通じないし、オフィスといっても工場地帯の中で、もうど田舎なんです。タイ人の働くスタイルやタイの環境が我慢できず、オフィスで泣き叫んで「こんなところで働いてられるか」とかいいながら、外に出てって思いっきり走ったこともあります。ドラマみたいでしょ(笑)。
父と商売でかかわったのも初めてでしたしね。父は商売っ気のない人で、何で私がここまでしないといけないのか、という葛藤もありました。そのころ、母はある会社から遮熱性塗料をつくってほしいという依頼を受けてOEMでつくり始めていました。



―1年で復職する予定はどうなったのですか。

当時のパートナーと出会って状況が変わったんです。日本人とオランダ人のハーフで、ウインドサーフィンでタイに遊びに来てたところを知り合って。アメリカで日系工作機械メーカーの現地子会社の社長をしてた人ですが、アントレプレナー精神が溢れている人でアメリカから移住してきて一緒に仕事をしようということになりました。彼が目をつけたのが遮熱性塗料です。気温の高いタイなら遮熱性塗料が必ず売れる、と。彼はその後、堺にある母の工場に一人で訪ねて。頭はいい人だったから一週間くらいでぜんぶ学んで帰ってきましたね。

それから本腰を入れてタイで売り出したらホンダから現地の工場の屋根に使いたい、ということで売れたんです。当時は現地で遮熱性塗料を扱っている会社がほとんどなかったので、日本で売るよりは簡単だったのかもしれません。


―どのように商売を広げていったのですか。

販売だけでなく施工も始めました。実は施工は一番利益の出るところなんです。オフィス周辺の町の現場をのぞいては「うちで働かない?」と声をかけて引き抜きました(笑)。それで雇い入れた職人を、私が運転する1トントラックの荷台に何人も積んで現場に連れて行って塗装するわけです。女の子がトラックを運転しているだけでびっくりされるから話題になりました。

でもタイの田舎になると道路事情も悪いし、大変なんです。ある日、某大手メーカーの部長とのアポに向かってたんですが、牛がトラックの行く手を阻んでしまって。牛をどかさないことには時間に間に合わないので、私も車を降りて牛を押しました。靴が泥まみれになって「ああ私のグッチの靴が~。」って泣けてきました(笑)。

でも商売が順調に行って従業員に任せられるようになったら、もう私のやることはないなってなって。そのころ、職人がお客さんの工場の壁にいい加減に塗ったところがすぐに汚れてムラになることがわかって悩んでいたところに、それなら汚れを防ぐ光触媒を使ったら、と教えてくれた人いました。それで遮熱性塗料に光触媒を混ぜたらどうかと堺の母に話をしたら、その話がたまたま堺市とつながって母の塗料会社と大阪府大と共同開発することになったんです。それが5年前のことです。


―それが大阪に戻るきっかけになったのですか。

新開発した塗料で世界、とくに環境の意識が進んでいるヨーロッパに進出したいと考えるようになりました。それなら日本からブランディングを発信したほうがいいだろうと考え、帰国することにしました。帰国してしばらくは大阪府大との共同開発を進めながら、堺と東京と行き来したりしていました。実はそのころ、以前からいつかやりたいと思っていたファッション関係の仕事も東京でチャレンジしたのですが、業界の内情が見えて8カ月で見切りをつけました。

結婚のことも考えたこともあります。でも結婚も育児も私のタイプじゃない。あ、結婚や育児を仕事のために犠牲にしたわけじゃないんです。私らしさを考えたら身軽でいたい。東京もヨーロッパも中近東もすぐ行っちゃいますから。でも「この仕事でやっていこう」と腹くくれたのは1年前のことです。これまでいろいろな仕事を経験してきて、やりたいことはやって、思い残すことはないしね。こうしていろいろ経た40歳くらいにならないと人生の方向性なんて決められない気もします。今までやってきたことのすべてに意味があったと思っています。



―今後の目標は。

塗料の世界は巨大な市場。私が今まで出会ったことのないような保守的な人がたくさんいる業界です。ただ、私のような異端の視点があればもっと面白いことができそうな気がしています。私が今からやりたいのはブランディング、しかも世界の市場で勝負したいと考えています。ついこの間もドイツの市場調査に行ってきんですが、環境に対する意識が進んでいるドイツを拠点にヨーロッパ市場で販売していきたいと思っています。

母は71歳になった今もバリバリ仕事をしています。私が結婚もせず、腹をくくってるのもわかっているので、黙って見守ってくれています。私の一番の理解者ですし、母がいなければここまでくることはできませんでした。今でも、母親が自慢できる娘でありたい、というのがわたしの原動力になっています。



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