「昔はすごかった」への反発心。私がアメリカの大学を3週間で辞め、起業を選んだ理由すべての始まりは「悔しさ」だった
はじめまして、株式会社メンテモ 代表取締役の若月佑樹です。
私たちがなぜ、SS(サービスステーション)という巨大な産業の変革に挑んでいるのか。そして、なぜ優秀なあなたに「今、ジョインしてほしい」と熱望しているのか。
その答えを語るには、まず私自身の「原点」からお話しなければなりません。 私のアイデンティティは、幼少期から一貫して「反骨心」と「悔しさ」によって形作られてきました。
私は、父方も母方も経営者という家庭に生まれ、母方は今も続く自動車の鈑金業、父方はかつて宝石・貴金属の卸売業を営んでいました。
「でした」と過去形なのは、父方の会社は私が生まれる前に倒産してしまったからです。山梨の地元では、自社ビルを構えるほど目立つ会社だったと聞いています。
だから、物心ついた時から、私は親戚や周りの大人たちからこう言われ続けてきました。
「昔は、ワカツキはすごかったよね」
それが、たまらなく悔しかった。 「昔は」って何だ。過去の栄光を、なぜ今、私に言うんだ、と。 一代で築き、一代で失ったものへの複雑な感情。その「反発心」こそが、私の全ての行動の源泉になったのです。
「普通」のレールに乗れない、生意気な学生
その反骨心は、当然のように学校生活にも表れました。 私は、いわゆる「普通」の生徒が難なくできることが、なかなかできませんでした。
学生時代の私は、「裏の目的が不明なルールを守る意味がわからない」と常に思っていました。 高校時代、愛着のある自転車を自分で組んで通学していたのですが、「学校指定のステッカーを貼れ」というルールに一切納得ができず、何のために貼るのか、腑に落ちる回答をくれるまで先生と徹底的に議論し、揉めたこともあります。
周りから見れば、ただの「生意気でめんどくさい学生」だったでしょう。
でも、私にとっては深刻な問題でした。 「自分は、人が決めた枠組みの中でうまく立ち回って、存在価値を出していく生き方は難しいんだろうな」 漠然とそう感じていた私は、ごく自然に「サラリーマン」という選択肢をハナから考えていませんでした。周りにサラリーマン家庭が少なかったことも影響しているかもしれません。
かといって、勉強や部活に熱中できたかというと、全くそんなことはない。 毎日が、ただただ「暇」でした。
だから、自分でやるしかなかった。 有り余る時間とエネルギーを、私は「事業」に注ぎ込み始めたのです。
圧倒的行動力で「世の中の仕組み」をハックした10代
中学生の頃から、今思えば「事業」と呼べるものを10個以上は試しました。
1. iPhoneアクセサリ転売(知的好奇心と仮説検証)
きっかけは、高校時代にバックパッカーとして訪れた東南アジアです。 タイのバンコクに、秋葉原を一つのビルに凝縮したような「MBK(マーブンクロンセンター)」という場所があります。そこで、日本では2,000円ほどで売られていたガラスフィルムが、たった100円(30バーツ)ほどで売られているのを見つけました。
「何かがおかしい」
直感的にそう思いました。ここで100円で売れるなら、大元の仕入れ値はいくらだ? 「これ、世界中探したら1枚10円とかで取れるんじゃないか?」 そう仮説を立て、帰国後に中国のアリババを調べると、まさにその通りの価格で仕入れられることがわかった。
私は高校生ながら、1,000個、10,000個という単位で発注し、求める人たちに販売していきました。これが初めて明確にうまくいった「事業」です。
2. ホームページ制作(独学と価格破壊)
事業をやるには、当然、軍資金がいります。 親から借りることもありましたが、私は独学で覚えたホームページ制作で、クラウドワークスやランサーズを使い、自分で稼いでいました。
なぜプログラミングができたのか? それは、小学生の頃に遡ります。私はもともと電子工作が大好きでした。親に「塾の県下統一テストで1位を取ったら1万円やる」と言われ、その時だけ猛勉強して1位を取り、1万円を握りしめて片道2,000円の交通費を払い、秋葉原へ部品を買いに行く。そんな小学生でした。
しかし、電子工作は「ハード」なのでお金がかかります。800円のリレー部品を一つ飛ばす(壊す)だけで、小学生にとっては致命的です。 「トライ&エラーが安価にできないか」と考えた末にたどり着いたのが、パソコン一台で完結する「ソフトウェア」、つまりプログラミングだったのです。
趣味で身につけたスキルは、高校生になって「稼ぐ力」に変わりました。 当時、クラウドワークスは実績数百件の猛者たちがひしめくレッドオーシャン。 そこで私は「価格破壊」という戦略を取りました。
30万円のコンペ案件に対し、「10万円でやります」と手を挙げる。 みんなが1ヶ月の納期を取るところを、「寝ずにやれば3日かな」と考え、「3日で納品します」と宣言する。 さらに、発注元の会社のMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)まで調べ上げ、「御社のこの領域に興味があり、私ならこういうアニメーションを入れます」と、熱量の高いメッセージを送りつけて、仕事をもぎ取っていました。
3. バックパッカー(原体験としての知的好奇心)
そもそも、なぜ高校生で東南アジアにバックパッカーに行ったのか。 それも私の知的好奇心の表れです。
私は昔から車(特にポルシェ)とAppleが大好きでした。ポルシェはドイツ、Appleはカリフォルニア。自分の好きな会社は全部海外にある。だから海外に行きたかった。 でも、欧米は高い。LCCで往復2万円、1泊1,000円のドミトリーで泊まれる東南アジアは、高校生の私にとって最高にエキサイティングな「冒険」の舞台でした。
当時の私は「地球の裏側で起きてることも全部知りたい」と本気で思っていて、暇な時はずっとストリートビューでウルグアイの街並みを眺めているような人間でした。
「普通」の枠に収まらない反骨心と、世の中の仕組みを知りたいという異常な知的好奇心。 この二つが、10代の私を突き動かしていました。
人生を変えた「熱狂」との出会い
そんな私にも、大学進学の時期が来ます。 SFCのAO入試を受けたのですが、ここでも面接官の教授とソリが合わず大揉め。「この学校には絶対に行くもんか」と、一般入試も受けずに辞退しました。
結局、アメリカのコミュニティカレッジに進学することに決めましたが、入学は8月。高校卒業から入学までの「暇な期間」が生まれました。 そこで私は、またいつものようにクラウドワークスで仕事を探していました。
それが、私の人生を決定づける出会いとなります。 あるスタートアップからHP制作の仕事を受注したのですが、ミーティングをすると、相手の社長(当時22〜23歳)が私をいたく気に入ってくれたのです。
「え、若月くんて山梨の高校生なの? 面白いから、うちで一緒にやろうよ」 「六本木にマンション借りてあげるからさ」
高校生にとって「六本木」という響きは強烈です。即決でした。 山梨から上京し、ドローンのスタートアップで働き始めたその日から、私の世界は一変しました。
「死ぬほど、楽しかった」
学校の教室で、退屈そうに時計の針が進むのをただ眺めていた自分とは、真逆の世界。 「寝ずに働けるって、こういうことか」と、心の底から思いました。
何が楽しかったのか? それは「世の中がこうやって動いているんだ」というリアルな手触りでした。 ドローンパイロット、グロースハッカー……聞いたこともない職業の、とんでもなく面白い大人たちがすぐ側にいる。自分が学生時代に感じていた閉塞感、その対極にある「熱狂」がそこにあったのです。
「これが、私が本当にやりたかったことだ」 そう確信しました。
3週間のアメリカと、起業への決意
高校3年の1月から7月までの約半年間、そのスタートアップで働き詰めました。 そして8月、予定通りアメリカの大学へ渡米します。
しかし、私の心はすでに決まっていました。 あの「熱狂」を、今度は自分の手で創り出したい。
渡米前から、私は周りに「帰ってきたらこういう事業をやる」と宣言し始めていました。 結果、アメリカでの滞在は、わずか3週間。 大学のオリエンテーションにだけ参加し、高額な入学金を振り込む前に、日本へトンボ帰りしました。
「昔はすごかった」と言われるのが悔しかった。 「普通」のレールには乗れなかった。 そんな私を、唯一受け入れ、熱狂させてくれたのが「スタートアップ」という世界でした。
だから今度は、私がその「熱狂」の舞台を創る。 メンテモという会社は、私の「反骨心」と、あの高3の冬に味わった「熱狂」の結晶なのです。
この記事を読んで、もしあなたが、今の環境に「退屈」していたり、自分の中にあるエネルギーを持て余していたり、あるいは「普通」の枠組みに違和感を抱いているのなら。
ぜひ一度、お話ししませんか。 私たちは、あなたのような「普通じゃない」才能を、心の底から求めています。