ゲストが、大切な人からもらっていた“ギフト”の存在に想いをはせ、まだ伝えられていない想いを伝える「GIFTFULストーリー」。今回は、当社の代表取締役・石塚悠悟が、両親との大切な思い出を振り返ります。
かけがえのない家族との時間、家業の倒産、急に訪れた別れ。
そこで石塚が得た“ギフト”について、話してもらいました。
忙しくも明るかった家族
――石塚さんはどんな家庭で育ったのですか?
石塚:
茨城県常陸太田市に生まれました。4人姉弟の3人目で、姉が2人と妹が1人。父は忙しかったので、普段は女性に囲まれて育ちました。
私の父は、茨城県でくめ納豆という納豆屋を営んでいました。祖父が立ち上げた会社を、2代目の父が大きくしたという感じです。
会社はすでに倒産していますが、当時の主力商品は、今でも大手食品メーカー様から販売されています。年商が約110億円、従業員も300人ほどいたので、地元ではわりと大きな会社だったのかなと。
経営者になった今だから、祖父や父のすごさが分かりますが、小さい頃はこのことにあまりピンときていませんでした。それでも、父の存在感に触れる機会はいくつもありました。
近所を歩いていれば、おじちゃんやおばちゃんに声をかけられることが多かったからです。
「納豆食べてるよ」
「いつもありがとう」
地元の人々は、私を通して父の存在を感じているようでした。
地元から生まれた有名商品を作って、地域の雇用を支えている父の姿を。
多くの大人から感謝される父は、きっとすごい人なのだろう。
漠然とではありますが、幼い私なりに父への尊敬の気持ちがありました。
――石塚さんのご両親は、どんな人だったのでしょうか?
石塚:
父のことをうまく説明するのは難しいですね。
父は茨城だけでなく東京との二拠点生活をしていたので、一緒にいる時間は少なく、その輪郭はうすぼんやりとしています。
あえて一言でいうなら、父は「陽気な人」だったと思います。
常日頃、よく冗談を言って家族を笑わせようとしていたのを、今でもよく覚えています。
それと、忙しいながらも家族との時間を大切にしていました。
年に必ず数回は、家族みんなを旅行へ連れて行ってくれていましたから。
なかでも、私は家族で行くキャンプが、何より楽しい時間でした。
家族みんなでテントを設営したり、川で釣りをしたり、釣れた魚を塩焼きにしたり。
テントの中で、寝袋にくるまってみんなで一夜を明かしたりもしました。
私にとってのキャンプは、普段一緒にいられない父と一緒に過ごせる、かけがえのない時間でもありました。その時の名残で、今も家族や友人とたびたびキャンプに出かけています。
母は専業主婦として、家族を支えていました。
父と同じで、明るくポジティブな人ですね。
私が2つ隣の町にあるサッカー少年団へ行く時、送迎をしてくれたのはいつも母でした。
サッカーというのは、ユニフォームもソックスもすごく汚れます。
お弁当を作ったりとか、当番制で水分を用意する必要があったりもします。
試合の応援のために、たくさんのことを準備しないといけません。
母はずっと、いやな顔ひとつせずその全部をやってくれていました。
それについて、グチを言う姿も見たことがありません。
当時の私は、これが全部「やってもらって当たり前」なんて思っていました。
とんでもないですよね。
今なら、このすべてがとてもありがたいことだったんだと分かります。
亡き父から受け継いだ想い
石塚:
2009年、私たち家族に大きな変化が起きました。祖父が創業して、父が大きくした会社が倒産したのです。
私は大学生でしたが、この時見た光景はあまりに衝撃的でした。
1999年に発生した、JCOの原子力燃料精製工場で起こった臨界事故の影響を受け経営不振に陥ったと聞いています。負債総額は100億以上にものぼっていたらしいです。
債権者には、ものすごい剣幕で「金を返せ!!」と迫られ、車や家財は自己破産で差し押さえられました。
これだけの負債です。地元の人々や関係者にたくさんの迷惑をかけて倒産したというのは、容易に想像できました。でも、債権者や多くの大人たちに必死に頭を下げ、それでも罵倒される父の姿を見るのは、私には耐えられませんでした。
長年地元に根差し、地域の人から応援されていた企業の最期が、こんなにもみじめなものであっていいのか?
悲しさとも悔しさとも言えない感情が、ずっと私の中に残っていました。
そして、倒産からわずか数年で、父が病気で亡くなってしまいました。
倒産の時、父は私以上に悔しい思いをしていたに違いありません。会社を再建するために、とにかく奔走していたにもかかわらず、志半ばで倒れてしまいましたから。
父の死は私に、会社の倒産で感じた以上の悲しさと悔しさをもたらしました。
――立てつづけに悲しい出来事が起こったのですね。
石塚:
大学卒業後、コンサルティング会社に就職しました。
父と同じような境遇に瀕した企業を助けたい、その会社を再建できるような力を持った社会人になりたいと、強く思ってその道を選んだんです。
就職してからは、しゃかりきに働きました。どうやったらお客様に貢献できるか、会社で成果を出せるか必死に考えました。私に深く刻まれた原体験が、馬力を生んでくれているのを感じました。
私はあの時の自分の無力感と悔しさに導かれるように、起業して経営者になりました。
3月には長男も生まれました。
私と父は、普段から会話をすることはあまりありませんでした。
倒産や大病を患った時も、そのことを深く話し合った記憶はありません。
今だったらきっと、父といろいろな話ができるのにと思うことがあるんです。
会社を経営する大変さとか、子育ての難しさとか、キャンプや釣りの話とか。
父はお酒なら何でも好きで、毎日晩酌していました。
ビールも焼酎も日本酒も好きだったから、父の好きな銘柄をとりあえずいろいろ用意して、一緒に飲みながら語り合うこともできるのに。
それができないと思うと、少しだけ寂しいですね。
石塚:
会社の倒産と父の死は、けっしていい思い出ではありません。
でも、このふたつの出来事も含めて、懸命に生きた父の背中が私にとっての“ギフト”になっていると今は思います。
社会に出た私がなんとかやってこれたのは、あの原体験が生んだエネルギーにほかならないからです。私はきっと、父の無念やいろいろな感情を受け継いで、ここまで来たんだろうなと。
今はもういない父に、どんなお返しができるのか。思い至った結論は、この受け継いだ思いをしっかり形にすることでした。
祖父と父がつくった会社以上に、人々から愛される会社を作る。
それがもしかしたら、父への恩返しというか、親孝行という名前の“ギフト”になる気がしています。
「どう生きるか」は母が教えてくれた
――お母さんは、その後どうしているのでしょうか?
石塚:
母は専業主婦をやめて、パートに出ることを余儀なくされました。
にもかかわらず、そこから介護施設、着物屋、幼稚園、保育園と、多くの職場を渡り歩いていったんです。
ここ2年は、なんと保育士の国家資格の勉強をしていて、見事合格しました。
60代なかばで保育士となり、今も元気に働いています。
これだけ多くの災難に見舞われたら、人生を悲観してしまっておかしくはありません。
気持ちがふさぎ込んだまま、ずっと立ち直れない人もいるでしょう。
母はそうなりませんでした。
人生を楽しむことも、面白くいきいきと暮らすこともやめませんでした。
石塚:
育ててくれた感謝以上に、その生き方は本当にすごいと思います。
災難が起きても、捉え方や考え方次第でどうにでもなるんだと、生き方で示してくれている気がするんです。
実は母とも、それほど頻繁に交流しているわけではありません。
姉弟は全員茨城を離れ、母は今、マンションで一人暮らしをしています。
大学で上京した当時の私は、母からの電話やLINEに返すのがおっくうでした。
こちらの気持ちを察してか、母からの連絡も徐々に減っていきました。
ここまでの話でバレているかもしれないが、私はとにかく口下手で。
自分の気持ちを相手に伝えるのが、どうしても苦手なんですよね。
「苦手」というのを言い訳に、母に感謝を伝えられていません。
このまま放置し続けると、感謝を伝えるというのが10年先になりかねないとすら感じています。
せっかく、今回の企画で両親との思い出を言葉にしているので、母にはなるべく早く、感謝の言葉と一緒に贈り物をしようと思っています。
――どんな贈り物がいいと思いますか?
石塚:
そうですね。母は花が好きだったので、花束を贈るのがいいかな。
お茶や紅茶も好きだったはずです。
旅行好きなので、旅行券を贈るのもいいかもしれませんね。
昔は旅行によく行っていたし、好きな場所を観光してほしい。
私の家族も連れて、また一緒に旅行に出かけたいな。
いつもと違う場所でなら、「ありがとう」と素直に伝えられるかもしれませんから。
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