代表の新田です。
今回は、株式会社NITACOを立ち上げた経緯をお話しします。
起業当時の貯金はわずか5万円。背中に背負っていたのは夢と、ほんの少しの勇気だけでした。
それでも、ここまで何とか生き残ってくることができました。
新田のプロフィール
〜2013年
北海道北見市で生まれ育ちました。空気の澄んだ小さな町で、高校を卒業する18歳までを過ごしました。 姉4人に囲まれた5人兄弟の末っ子。小学生の頃から高校までずっとサッカー漬けの毎日でしたが、大学に入って初めて「自分はサッカーがそこまで好きじゃない」と気づく瞬間が訪れます。子どもの頃から当たり前のように続けてきたことが、自分の心からの情熱ではなかった——そんな小さな気づきが、後の人生にも影響していきます。
〜2018年
大学受験では大きな挫折を味わいました。センター試験の国語は200点満点中わずか70点。第一志望には不合格となり、進学先は滑り止めの私立大学でした。
その悔しさから、「ただ流されるように普通の大学生活を送りたくない」という思いが強くなり、海外に出たり、学外で新しい仲間をつくったりと、積極的に動き始めました。
そして大学4年生を迎える頃、1年間の休学を決意します。きっかけは、心の中で膨らみ続けていた問いでした。
「なぜ、皆と同じようにレールの上を歩き、卒業したらすぐに社会に出なければならないのか」
その問いの答えがどうしても見つからず、むしろ「もっと広い世界を自分の目で見たい」という思いに突き動かされていきました。
そして、働く理由も目的もわからないまま社会に出るのではなく、一度「働く」という経験をして、自分の中で納得できる形にしておきたかった——そんな想いからの決断でした。休学期間中、プログラミング経験ゼロなのにスクール講師として働き、なんとかエンジニア見習いに。
そのスキルでノマドワーカーとして世界30カ国を放浪します。ビーチ沿いのカフェで仕事をした日もあれば、Wi-Fiを求めて街をさまよった日もありました。
しかし旅の途中でPCを盗まれ、収入源を一気に失い、帰国。帰国後は資金がなくホームレス状態に。寝る場所も定まらず、荷物を抱えて街を歩き回る日々の中、目に留まったのは「時給2,500円!」という求人広告(実際は800円)。そこに応募し、採用してくれた社長と同じ部屋で寝泊まりすることになります。
その後大学に戻り、ブルーベリーの皮に含まれる化学物質が化学兵器になり得るという話に興味を持ち、その研究に没頭していました。
〜2020年
気づけば大学4年生の冬。就職のことはほとんど考えておらず、通年採用をしている企業もわずか。裏口入社を企んでは失敗を繰り返していました。
そんな中、幸運にも株式会社じげんに内定。経営戦略部に配属され、ここでの経験が後の起業に大きな影響を与えます。
新卒入社したじげんでの仕事で多数の経営者と接する
じげんでの主な業務はM&A案件のソーシングとデューデリジェンス(DD)。 銀行や証券会社、仲介会社からの紹介、時にはドアノック(飛び込み)で案件を獲得します。
初期DDから本格的なDD(ビジネス・法務・ファイナンス)に入り、候補先との交渉、経営会議や取締役会でのプレゼンまで担当しました。 毎月約30件の案件に向き合い、数多くの経営者と膝を突き合わせて話をする日々。そこで見たのは、数字だけでは測れない経営者の決断の重みと、ビジネスの現場の生々しさでした。
自身のコンプレックスや挫折がきっかけで起業に興味を示す
私の原動力の根底には、幼少期から抱えていた金銭的なコンプレックスがあります。 裕福な家庭ではなく、食材の値段を巡って両親が言い争う光景を何度も見ました。自分もその中で遠慮や我慢を覚えました。
そしてもう一つ、大学受験での大きな挫折。毎日16時間勉強しても報われなかったあの日は、人生の価値観を大きく揺さぶりました。 「自分の努力次第でどこまでも上を目指せる世界があるはずだ」——そう思い、大学時代から常にそのフィールドを探し続けていました。 その答えのひとつとして見つけたのが、休学中に出会った「起業」という選択肢でした。
貯金5万円からの起業スタート
M&A業務を通して、私はあらゆる業界の財務や市場の仕組みを学び、経営者とのつながりも築いていきました。 もともと「起業するために会社に入った」つもりだったので、1年目から血眼になって市場研究。結果としてその活動が会社の成果にもなり、会社にとっても私にとってもWin-Winの関係に。
そんな中、巨大市場である建設業に注目し始めます。祖父が建設業で事業を営んでいたこともあり、どこか縁を感じる業界でした。
ある日、知り合った建設業の社長から仕事をいただけることになり、いよいよ起業を決意します。
しかし、その決断は社内でも大反対されました。上司には何度も呼び出され、「絶対に成功しない」「今の仕事を続けろ」と強く止められました。正直、不安もありましたが、その言葉は同時に「絶対に見返してやる」という火種になりました。
貯金はわずか5万円。普通なら怖くて足がすくむ状況ですが、なぜか恐怖はなく、「やるしかない」という思いだけがありました。新卒2年目の25歳のことでした。今思えば無謀だったかもしれません。それでも、この無謀さこそが起業家なのだと思います。
趣味で作っていたアフィリエイトサイトを25万円で売却し、その全額を登記費用に充てました。お客様には泣きながら前金をお願いし、ギリギリの生活をつなぎながら、毎日あらゆる手法で泥臭い営業に飛び込みます。電話をかけ、足を運び、何度も断られ、それでも食らいつく。そうして少しずつ信頼を積み重ねていきました。
そして創業3年目、ついに年商1億円を突破。
あの時、上司に「無理だ」と言われた言葉は、私を突き動かす最高の燃料だったのだと今では思います。
今回は以上です!