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当社の成り立ち ~1990年代から今に至るまで~

1990年代から現在に至るまでの当社の沿革をご紹介いたします。

創業から約30年間については、前のストーリーで記述した通りです。まだご覧になっていない方は、先にそちらをご覧ください。

1990年に松阪工場を設立しました。かなり広大な土地に建屋を立ててのスタートでした。生産拡大を意図したこの設備投資は、次第に大きくなってきていた高硬度材の需要に対応するためのものでした。高硬度材を加工するためには、当時得意としていた長大物・材質を加工する設備とは異なる工作機械が必要でした。

まもなく世間はバブル崩壊で、異例の景気悪化に見舞われます。

生産設備を増強した手前、引き下がる訳にはいきません。当社は営業網を東北、九州へも拡大し、新規開拓で需要をかき集めて、既存のお客様の景気低迷のインパクトを緩衝していましたが、国内での価格競争は激化し、少しずつ製品価格は下落してきました。

国内市場で下がる販売価格に対するコスト構造に危機感を覚えた現社長の水谷昌晃は、海外の低い労働資本に目をつけ、ローコスト生産が行える体制を整えました。1999年の上海工場設立がこれにあたります。

このとき、私は小学2年生でした。上海工場の立ち上げに奮闘する父の姿は、鮮明に脳裏に残っています。

程なくして、2001年、膵臓癌で先代が亡くなり、水谷昌晃が社長に就任しました。

ここから約10年、現社長は生産拠点のグローバル展開を徹底します。半導体需要の拡大に目をつけ、既に半導体産業のあった韓国に生産拠点を設けたのが2007年、上海の人件費高騰を受けて次なる低い労働資本を求めてインドネシアに生産拠点を拡張したのが2011年でした。

先代が国内の販売網を拡大させ、現社長は生産体制をグローバル展開させたといえます。

グローバル展開が一段落すると、戦略の焦点をITによる省力化に絞っていきます。

2017年に、「チャンピオン工業」から「CHAMPION CORPORATION」へ社名を変更しました。これは人材確保のための施策でした。社会の多様化、女性の社会進出等を背景とし、工場のイメージである3Kを払拭するための英語表記への変更でした。

そして、社名変更は、女性だけの工場 YAO-Factoryの立上のための布石でした。女性雇用時に社名が足かせとならないよう配慮したものでした。YAO-Factoryでの取り組みの詳細については、ポートフォリオをご覧ください。2018年に立ち上げたこの工場は、熟練加工者の知識・技術・ノウハウをプログラミングで再現し、女性でも加工を完了できる仕組みを構築した点で斬新で、多くのメディアに取り上げられました。人材不足の現代において、知識・技術・ノウハウの伝達の手間を大幅に軽減させ、パートの女性も生産現場の戦力とできること、海外や国内遠隔地への工場展開が可能になるなど、新たな可能性を広げています。

IT化による省力化策は今も続いています。直近の成果で言えば、OCRやRPAの導入による作業の自動化で、4名で行っていた経理業務を1名でこなせるようになりました。

今は社内SEが2名在籍しており、新しい基幹システムや独自の業務システムの構築・改修を担っています。

前のストーリーで記述した通り、当社は、一見非効率に見える多品種少量生産を効率化させ、商売として成立させ続けてきた企業です。AIや画像認識の登場で、従来は実現不可能だった課題の実現可能性が高まってきています。ITの力で省力化を徹底して狙い、商売のコスト構造を更に進化・圧縮させることが、当社の強みとなると確信しています。

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