前職は不動産営業。その後フリーランスとして活動し、フェリエストに入社しました。アカウントプランナー(新規営業)を経験したあと、今は新卒・中途採用を担当しています。
この記事では、私がなぜ異業種への転職を選んだのかを、前編・後編に分けて書きます。
競泳とコーチ経験
2歳から22歳まで、ずっと水泳をしていました。
20歳のころ、コーチと指導方針で衝突が絶えなくなり、どれだけ頑張っても思い描く結果が出ない時期が続きました。もがき続けた末に選手は引退し、その後は子どもたちに水泳を教えるコーチをしていました。
今思えば生意気だったと反省する部分もありますが、あのとき自由にやらせてくれたコーチがいたからこそ、今の私があると感謝しています。今では飲み友達であり、良き理解者。困ったことがあると、すぐに相談しています。
原点は、震災の日に乗った飛行機
私は岩手県宮古市で育ちました。2011年3月11日、ちょうど小学校の卒業式の日に東日本大震災が起きました。
陸の孤島と呼ばれている地域で、支援物資を運ぶ道は土砂崩れでふさがれ、電車もバスも車も動かない。そんな中で唯一動いていたのが飛行機・ヘリコプターでした。
人生で初めて一人で乗ったヘリコプターで、大手航空業界の客室乗務員の方がボランティアで、現地へきてくれていて、同乗してくれました。何も言わなくても隣にいて、そっと寄り添ってくれる客室乗務員の方の接客に、心を奪われました。
そこから「客室乗務員になりたい」と本気で目指し、大学もその夢が叶えられる場所を選びました。
コロナ禍の就活で、夢が消えた
就活が本格化する大学3年の終わり、コロナで世界中がロックダウンに入りました。面接もない、授業もない、アルバイトもない。友達にも家族にも会えない。人がどれだけもがいても、どうにもならない。震災に続いて、そんな経験は2回目でした。
そして、客室乗務員の新卒採用は止まりました。ずっとそこを目指して頑張ってきた私は、本当に落ち込みました。
就職浪人という選択肢もありましたが、何が起こるか分からない不安から、その道は選びませんでした。代わりに目指したのは、震災のときに大きな影響力を感じたテレビ・広告の業界です。内定はいただけたものの、コロナによる業績不振で、4社で内定取り消しに遭いました。
そこで改めて考えたのが、「衣食住」でした。どれだけおいしいご飯があっても、人は家に帰りたくなる。どれだけ素敵な服があっても、毎日持ち歩くことはできない。つまり、家がないと生活ができない。私にとって一番大切なのは「住む場所」だと思い、不動産業界を選びました。
新卒時代「絶対できる」という自信は、すぐに崩れた
入社したのは、今思えばフェリエストとよく似た風土の会社でした。
入社直後の私には、「絶対できる」という自信しかありませんでした。でも実際は、まったく使い物にならなかった。スピード感、相手に伝わる話し方、メールや送付状の書き方、誰よりも先に電話を取ること。当たり前のことが何一つできず、上司からはビジネス書を何冊も渡され、何度も怒られて、悔しくて泣きました。
それでも当時の私は、「なんであの人は」「この環境が」と、いつも他人や環境のせいにしていました。今振り返ると、その頃の私はまったく成長していませんでした。
辞めたいと思ったこともあります。そのとき上司に言われた言葉を、今でも覚えています。
「やりがいなんて、入って1年で身につくはずがない。仕事が楽しいなんて思えるはずがない。経験がないんだから当たり前だ」
この言葉に、何度も救われました。
2年目、自分のせいだと気づいてから変わった
2年目に入って、ようやく気づきました。うまくいかないのは、自分が変わっていないからだと。
そこから少しずつ、物事を自分ごととして捉えるようにしました。ご飯に行くのは学びの多い上司とだけ。お客様との会食では、たくさんお説教もしていただきました。言われるうちが花だと思っています。
すると、お客様の反応が目に見えて変わりました。
「平塚さんだからお願いしたい」
「え、まだ2年目なの?」
「しっかりしているね。娘に見せたいよ」
成績も少しずつ残せるようになり、自分の考えを理解して、共感してもらえることが増えていきました。
当たり前のことを教えてくれた理由
今なら分かります。不動産は決して安い買い物ではなく、人によっては一生に一度の買い物です。だからこそ、契約書をきれいに整えるだけでなく、そこに至るまでの道のりにもしっかり寄り添い、「この会社を選んでよかった」と思ってもらう必要がある。
上司が当たり前のことを厳しく教えてくれたのは、そのためだったのだと思います。
後編では、不動産営業からフリーランスを経て、フェリエストに出会うまでを書きます。