「なぜ那賀町で広告会社を?」よく聞かれます。
けれどそれは、僕自身の人生をたどると自然な流れでもありました。
始めまして、もちもちデザイン代表取締役の谷澤 勇と申します。
突然ながら僕がなぜ徳島の、それも限界集落で
広告代理店をやっているのか?をお届けさせていただきたいと考えています
手記程度のものではございますが、シリーズモノとなっていますので
もしよろしければ最後までお読みいただければと思います。
それでは、ゆっ〇りしていってね!
僕はもともと那賀町の出身です。高校は地元の工業高校で電気科、大学も電気科。
就職先もビルメンテナンスの会社。
正直、特別じゃない「普通の人生」を歩いていました。
高校までは剣道を一生懸命やっていましたが、
特に夢も希望もない、バイトしかしていないいわゆる普通の大学生。
単位はギリギリ、就職活動も秋になってようやく決まるぐらいの堕落。
おもちゃ会社に行きたい!と思って大手や玩具メーカー等片っ端から受けるもどこも受からず。
流されるように大学の求人票に飛びつきようやく決まった就職。
でも、大学時代から抱いていた夢がありました。ーアニソンシンガーになりたい。ー
田舎ではカラオケという文化がなく、大学生で初めて触れたカラオケにのめりこみ、
将来は人前で歌ってみたいな~。でもそんなことは遠い夢、無理無理。
そんなことをぼやきながらなんとなくボイトレ教室に通ってみていました。
社会人になってもボイトレに通い、仕事が終わってカラオケ、というエンジョイ放課後!
なサラリーマン生活でした。
それが一変したのは突然の出来事。ひょんなことから
芸能事務所に所属して本格的に活動を始めました。
夢に近づいたはずの僕を待っていたのは、想像以上の苦労。
バイト禁止、車中泊、風呂なし、そして借金2500万円。現実は甘くなかった。
アニソンユニットとしてライブハウスや路上ライブを回りながら、
アイドルグループのマネージャーとしての活動。二束のワラジを履く日々。
この経験が私の人生を180度変えました。
(底に落ち切ると人間180度変わるらしいですが、まさにこれがそう。)
当時を振り返る。ドラクエのコスプレをしてバンドがあってバックにマスオさん。どういう状況だ・・・
芸能の道を離れたあとは、いくつかの会社を転々としました。
※29歳で合計6社経験!爆!
借金のせいでろくに生活が回ったものではなかったです。
働いても、なんやかんやで手元に残るのは1万か2万ぐらい。
これらの生活を通して得たものは
「並大抵のことではへこたれない精神力」と、
「人生意外と何とかなる」という事でした。
住んでいたのが大阪という事もあってか、
多少のことでも自虐や笑いのネタの材料にできるようになりました。
最終的には大阪で広告代理店にたどり着きました。
ようやくたどり着いた安住の地。
結婚もして、もうすぐ子どもが生まれる──そんなときに会社が倒産。
迷った末、我々は「親のすねをかじって生活しよう(笑)」と地元・那賀町へ戻りました。
今回の話は、もしよろしければお酒を飲みながらでもお話させてください(笑)
次回は「都会に戻るつもりだった僕が、なぜこの地に残ったのか?」をお話しします。