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【創業期ストーリー①】売上の8割が消滅のしくじり。しかし横展開でなんとか切り抜ける

※写真などは後ほど入れます

1995年に通産省(現・経産省)主催のマルチメディアグランプリ95で、当方で運営していた自動車の情報サイトがネットワーク部門ビジネス賞を受賞しました。これがきっかけで、野村総研のインターネット総合サイト「サイバービジネスパーク」へのコンテンツ提供も始まり、トヨタ、日産、ホンダ、マツダ、三菱などのカスタムカーの情報を取材して提供することになりました。

この時点では、ほぼ1人編集プロダクションですから、忙しいの何のって、睡眠時間4時間程度で、それ以外は仕事という感じでした。明け方に自転車に乗って帰宅していると、お巡りさんから職務質問を受けることも2~3回ありましたが毎回拒否w

あまりに忙しいので、妻の妹の旦那(義理の弟ですが、まったくの他人)にも仕事を手伝ってもらっていました。事務所は吉祥寺のワンルームマンションで、賃料8万円。久我山高校に通っていたこともあって、「吉祥寺は庭」という感覚でした。

1998年頃からは動画配信のためにビデオ撮影もしていたのですが、そこでTDKのソフトウェア子会社であるTDKコアのプロデューサーから声がかかり、TDKコアから自動車情報のビデオソフトを出版することになりました。販売ルートは書店とコンビニです。約1年間で4本のビデオソフトを出したところでTDKコアのプロデューサーがヘッドハンティングで転職することになり、今度はその転職先へのコンテンツ提供へと切り替わることになりました。

その転職先がパシフィックセンチュリーサイバーワークスジャパン(PCCWJ)という長い名前の会社で、香港財閥の通信子会社が日本進出にあたってのコンテンツ展開をお手伝いすることになったのです。その時のファイナンス担当が、今のビズリーチ(ビジョナル)創業者の南壮一郎(スイミー南)氏でした。

2001年にこのPCCWJのコンテンツ事業が日本で始まることになり、9月の事業開始まで何とか間に合わせました。同時に当方も体制強化を図るべく法人化を果たし、コンテンツ提供に注力することになります。しかし、このPCCWJの比重が重く、他の仕事ができません。「できません」というよりも、「やり方が分かりません」という方が正確です。

法人化して間もないタイミングであり、売上も個人事業でやっていた時の年商3000万円くらいの倍以上になっていました。

そんな2002年のある日、件のプロデューサーから「2年目も同じように発注できるかどうか分からない」と情報リークがあり、ほぼPCCWJ頼みになっていた弊社財務を即改善する必要に駆られました。一本足打法の最大の弱点は、それが折れてしまうことだからです。実際スイミー南氏からのコストカット要求も来るようになり、弊社は事業改善待ったなしの状況に陥ります。

そこで、細かったBIGLOBEとのビジネスを太くし、ニフティ、so-net、インプレスといった複数社へのコンテンツ提供を開始しました。この事業展開は、通信社ロイターのビジネスモデルが参考になりました。

PCCWJの1社依存率が高かった弊社事業は、結果的に5~6社との事業展開でリスク分散することになり、3名の会社で年商1億円…俺ってイケてるかも…と勘違いが始まったのもこの頃です。

コンテンツの種類としては「自動車情報」の一本足であることに変わりはないので、早急にあと2~3ジャンルの取材チャンネルを構築する必要にも迫られていましたが、なかなか次のステップに進めずにいた私は、1回数十万円もする胡散臭いセミナーにも通い始めますw


つづく

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