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【創業“前”ストーリー①】卒論締切日を未確認というしくじり。しかし「編集者」の道を確信

Photo by Philippe Bout on Unsplash

大学卒業後は、もしかしたら「ミュージシャン」?
それとも稼げそうな「塾のプロ講師」?

趣味のバンド活動が面白くなり、学業が疎かになっていた大学生時代。
早稲田大学政治経済学部のリーダー/ギターを筆頭に、東京医科歯科大学のベーシスト、東京工業大学のキーボーディスト、青山学院大学のドラマー・・・そこに國學院大學経済学部のボーカリストと、文学部の私が参加しているのですが、音楽に学業の偏差値は無関係とはいえ、なんとなく足を引っ張っている感が否めないのも事実。
それもそのはず、冒頭の3名は都立青山高校出身、ドラマーは都立戸山高校出身でみんな偏差値70超え、ボーカルと私は私立久我山高校からの内部進学ですから推して知るべしw しかし、音楽活動で結び付いている人脈なので、スタジオ練習の後で飲みに行っても大学の話などは全く誰もしませんでした。バンド内では曲を仕上げて行くのが面白く、私は自分の担当のギターと作詞に精を出していました。

音楽面では当時、デモテープを聞いてもらえば大半のライブハウスには出演OKになっていました。「渋谷エッグマン」「新宿ルイード」といったライブハウスでバンド演奏をするのが楽しくてしかたありませんでした。高校生の時に出ていたアンダーグラウンドな雰囲気の「新宿JAM」とは違い、今で言うところのキラキラした感じがしていたのです。

ゼミにも入らず、学内のサークルにも所属せず、授業も最小レベルの単位しか履修しないで、バンド活動と塾講師のアルバイトで一日が終わるという状態です。塾講師は大学1年の夏休みくらいからやっていたのですが、自分に向いていると感じていました。中学生の英語、現代国語、古文、漢文を教えていたので、プロ講師レベルで授業を持っていたほどです。

↑日本コロムビア運営のライブハウス「渋谷Eggman」。何度も出させていただきました。

文学部は卒論があったハズだが…?

そんな4年生のある日、久しぶりに大学の授業に出たのですが、顔見知りのクラスメイトに、「そういえば、卒論ってみんなはどうしてる?」と聞くと、「お前、もしかしてまだやってないの?!」と驚かれる始末。教室には「付属上がりがまたやらかした」という雰囲気が漂っていたかもしれません。当時は、他人が代わりに出席の返事をする「代返」という技が通用していたので、授業にもほとんど出席しておらず、卒論の締め切りすら頭に入っていませんでした。
時代は、「携帯電話」前夜ですし、「インターネット」もありませんので、同じ学部に友人と呼べるほど親しい知人がいない状況では情報が得られないのです。
ちなみに、同じクラスには音楽のプロ活動をしている人もいましたが、彼はだんだん学校に来なくなり、3年生になる頃にはほぼ来なくなっていました。(今でもプロギタリストとして活動しているようです)


↑國學院大學には神職を養成する学部があるので、学内には「神殿」があります。こうなったら神頼みで卒論をクリアするしかないw

蛙の子は蛙…やっぱり「編集者」に向いている

「卒論がヤバい」…という状況は分かったので、まずは学内の「図書館」へと急ぎました。4年生にして初図書館。卒論のテーマは簡単にまとめられそうな「徒然草」w 徒然草ファンの方、ごめんなさい。図書館で関連書物を片っ端から借りて、夜になってから父親が経営する出版社に入り込み、コピーしまくりました。(当時は、コピーが高かった時代)

広い机が必要なので、バイト先の学習塾の教室を使い、卒論WEEKに突入。重要そうな部分を切り取り、並べ替え、おおよそ2週間で卒論をまとめ、無事に提出できました。もちろん、引用が9割w

そしてこの時、自分は「編集者」に向いている、ということを確信したのです。父親は出版社を経営していましたし、編集者でもありましたから、「蛙の子は蛙」で自分も「編集者」に向ていると感じました。
これによって、もしかしたら「ミュージシャン」になれるかもとか、稼げそうな「塾講師」も良さそうだ…という迷いをようやく断ち切ることができました。

この「卒論がヤバい」状況を乗り切ったことをきっかけにして、就職活動を出版社に絞って「編集者」への道を進む決心をできたのは自分にとってラッキーな出来事でした。

つづく
(なぜ父親が経営する出版社の後を継がないのか、については別に書きます)

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