ご挨拶
第一線で活躍するタレント・クリエイターのポテンシャルを引き出す斬新な企画を用いて企業および社会課題を解決する会社を経営している佐藤と申します。
今まで自身の話をするのは好きじゃなく、避けてきました。
ただし、このタイミングで今後の会社の成長と発展に必要な仲間を集めるために、ある種一つの自己開示として、このnoteを記します。
予めお伝えしたいのは、
このnoteを記す目的は、決して過去自分が大変だったから同情していただきたい、また尊敬してほしいなどといった私的な目的は一切ありません。
今後、aiRという船に乗船し未来の仲間になる予定のそこのあなたに、
佐藤彰真という人間を知っていただき、来るべく近い未来に腹を割って情熱を燃やして一緒にお仕事をしていきたいから、記しています。
では、始めます。
はじめに
なぜこのタイミングで創業ヒストリーを記すのか。
今まで多くの方々のご協力とあり得ないほどに恵まれたご縁のおかげで、
aiRは日進月歩で成長させていただきました。
まるで部活動の1つのように始まったaiR部は、途中先が見えない霧がかかった山々を超え、時には嵐のような出来事も経験し、全てを糧に変えて強くなり株式会社aiRに。
そして今、私たちが軸足を置いているマーケットの成長により、『更にワクワクする未来を、心の通う仲間たちともっと創っていける!』そう思えるようになり、このタイミングで当社の歴史やまた創業者である私自身の歴史も想いも、情熱も知っていただきたいと、そのような純情で記しています。
僕たちの未来は、僕たちが創る。
みなさん、こう思うタイミングはありませんか?
『もっと〇〇があればいいのに、、、』『もっと〇〇な世の中になればいいのに、、、』
〇〇に入る単語は、なんでもいいと思います。その数ほど個性があり、その個性があるほど、世の中は神秘的で美しいからです。
aiRは、次の時代の為の、そうですね例えていうならば、
『今後1000年間持続する、ブランドとSNSクリエイターの新しい関係値』を創出し維持し続けるために存在している会社です。
今どき、各SNSにおいて1000フォロワーいない人の方が珍しい世の中になりました。(という僕は全てのSNSを足しても1000人いないですが。笑)
一人一人が、まるでRPGゲームのように主人公のように生きる今後の人類史において企業と各インフルエンサーがどういう関係値を築くのかは昨今のPR・マーケティング分野における課題なのではないでしょうか。
我々は、機械的で殺伐したコミュニケーションをするのではなく、時にぶつかり合い時には涙し合うような、そんな泥臭いけど本質的な情緒的なコミュニケーションをインフルエンサー・ブランドの方々と取り合いながら、それらを繋げるブリッジ役として存在し続けます。
みんなが理想だと思っている。でもまだ、誰もやったことがないことだと思います。だから、ワクワクし挑戦し実現する価値があるのです。
原点
ここからは、私自身がどのような幼少期を送ったのかを記します笑
(恥ずかしすぎるなw)
幼少期〜中学生
私は、愛知県名古屋市で生まれ一人っ子でした。
幼稚園の頃の記憶はあまりないですが、いつも外で仲良く走り回っていました。笑
実業家の祖父と。
祖父ほど人徳に溢れた方は未だいないと思います。
小学校に上がると、野球を始めました。
小学2年生の頃から野球を始め、最初は全然下手くそでした。親父によく怒られていました。言われてばかりで悔しかったので、小学4年生くらいから、平日は仕事から親父が帰ってきたら一緒に自転車で近くの公園まで行き、球が見えなくなるまでバッティング練習をしました。
ノックでは真っ暗でボールが見えない状態だったけど、次第にボールがバットに当たる音だけで落下地点に行けるようになりました。
小学5年生くらいになった頃には6年生の試合に出場し、そこでも中心としてやってました。小学6年の頃には、僕の記憶が正しければ年間で20本以上ホームランを打った気がします。家にはそれらのホームランボール飾ってありましたw
無我夢中で野球少年でした。
クラブチームのご飯会で。真ん中のピースが僕。
小学校のクラブチームは地元ではぼちぼち強いクラブチームでした。スタメンからは甲子園に3人出場しています。
その中で中心選手としてかなり成果も上げていたので名古屋市の中では有名になっていたと思います。
実際に中学に上がる頃には、何個か地元の名門クラブチームからお声がけいただきました。でも、地元の仲間と一緒に野球をやってみたいなと思い、お断りして中学の野球部に入りました。
この中学は、地元じゃ有名な監督もいた野球部でしたので厳しかったです。
それでも1年生からレギュラーとしてやらせていただきました。ここで上下関係、なかでも先輩方と一緒に練習し続ける中で、後輩としての立ち居振る舞いを叩き込まれたと思います。今にも通ずる上下関係の掟における非常に良い経験になりました。
高校は、もちろん野球推薦で行こうと思っていました。
なのであんまり受験勉強もしていなかったです。でも中学3年の春、一番大事な時期です。この時に右肘の遊離軟骨を患い、手術をするか自然治癒させるか、を迫られました。メスを入れるのは怖かったので自然治癒を選択しました。
ここが人生で初めての挫折でした。
お先真っ暗でした。
大好きな野球をやれなくなること、今までたくさん野球の道具や費用を払ってくれたおじいちゃんにはとても申し訳なくて、毎晩泣いてました。
名古屋のベストナインか、なんか表彰されたときの祖父との写真。
それこそ、小学校のクラブチームのかつての中心メンバーは野球の名門の中京大中京や東邦、愛工大名電などに野球特待生・推薦が決まっていました。僕は一気に取り残されてしまって孤独でした。
結果、地元の高校への進学になりました。
高3の頃、50-60名規模だったサッカー部
主将をやっていました。ルーズな練習態度には徹底して怒ってました。
人生が変化した上京そして大学期間
大学では英語を勉強して、国際的に活躍できる人材になろうと思い、僕は一度地元の大学に入学しました。
けど、これは今でも覚えています。
大学生になってすぐ18歳の春に、高校のいつメンのよしき(aiRの社員)が上京していて、三軒茶屋の高層マンションにお邪魔した時です。
僕は暇時間を持て余すために、麻布十番のカフェに行きました。
あの有名な麻布十番の通りで僕は鳥肌が立ちました。
なんて高貴な街なんだ!!!!
美男美女、街の雰囲気もこれは名古屋にない!!!!!東京に来たら人生が変わるかもしれない!!!!
そう、心底思いました。これは言葉では表現できないものだと思います。
それくらいに鳥肌が立ちました、あの感動は2度と忘れないでしょう。
そして、夜行バスで実家に戻り、その晩すぐに両親の前で土下座してもう一度受験勉強をさせてほしいと懇願しました。
入り口の部屋
自分の部屋の角
今思うと狂気。ただ、
かつてはそれまでして上京したかった。
両親を説得するのは、本当に大変でした。受験にかかる費用はもちろんのこと、上京が決まっても家賃含む一切を支援しないという条件でした。
スターバックス御器所店で時給840円でアルバイトして、受験に必要な費用をすべて貯めました。(確か40万円くらい貯まったっけな)
昼は大学、夜はアルバイト、そのまま明け方まで勉強。8ヶ月ほど続けました。今だから言えるけど、当時の自分は狂っていたと思います笑
スターバックス御器所のバリスタ時代
その経験から、目標を立てたならば、どんなことがあろうとも達成してやるという胆力と気概が身につきました。今となっては、あの経験がなければ今の自分はないと、そう断言できます。
上京した初日。ギラつきすぎ。wwww
そうして、念願の上京を達成しました。
川崎の溝の口駅から徒歩15分離れた1Rアパート、家賃5万円の自宅に住み、東京生活を謳歌していました。
大学が終わると、溝の口駅のスタバで働き、そのあとは渋谷の叙々苑のキッチンで終電までバイト、終電で溝の口駅に戻りアパートのそばのすき家で明け方までバイトして眠らずにそのまま大学に行く、という生活を週5してました。家賃払って定期払って学費も払っていたので、手元に残るお金は2万円とかでした。大学生のころに、10万円以上お金があったのは、なかったんじゃないかな。
上京して最初に住んだ5.5万円のアパート
今思うとタフな日々でしたが、当時の僕はそれでも楽しかったです。
この頃の苦学生の経験が、お金の価値を分からせてくれました。
今の自分をつくっています。
なぜ学生起業をしたのか
まあ、きっとなんとかなるでしょ。
僕が就職活動をしていたタイミングは、ちょうどコロナ禍でした。
ステイホームを謳い、外出禁止令的なムードだったこともあり、ひたすら自己分析をしました。だんだんと自分の理解が深まるに連れて、面接通過率も上がっていきました。
一方で、ちょうどそのタイミングで、周りの友人が一気に変わりました。
大学の友達やインターン先の友達でいつもいたのですが、ちょうどそのタイミングから個人事業主のクリエイターや学生起業して1億くらいやってる友人と、ひょんなきっかけで出会い急に仲良くなり始めました。もう大学4年はほぼ毎日一緒にいたと思います。
その中で、みんなと今後のキャリアや人生を話す中で、『あ、俺も起業し挑戦してみるか』と思うようになりました。
『All is Well.』という映画をご覧になられたことある方、いらっしゃいますか?
この映画を観て、『まあ。きっとなんとかなるでしょ。』と、当時やはり多少不安もありましたが、“きっとやっていける”というポジティブな気持ちを信じ、背中を押され、自分でやることを決意しました。
自分の身の回りにいる人たちをどのような人にするのか、よく考えておくのをおすすめします。
ポジティブなオーラを持つ人と一緒にいると、自分自身もポジティブになります、その逆も当然然りです。
僕自身、かなり極的なポジティブ思考だと思うので、周りの友人もそういう友達が多いです。
最も試練の多い道に行こう。
起業を決意したものの、
『何から始めよう?』
『お金ってどうやって稼ぐの?』
『登記ってどうやってやるの?』
『名刺ってなに?』
など、社会人経験がない僕は、もう見よう見真似でいろんな事を吸収して行きました。今もそうですが、人にいただいたアドバイスや、その人の細かな発言や姿勢を細かく確認し1つでも自分のものに出来ないかという観点で日々仕事をしています。
家賃50,000円、5畳のワンルームで2つデスクを置いて生活していた、22.23歳の頃。
そのような習慣を身につけることで、人よりも早く成長ができた気がします。
さて、話を戻すと、
起業を決意したものの『なぜやるのか?』という観点が抜けていては、企業は永く続かないと「ビジョナリーカンパニー②」という本を読んで勉強しました。
なぜやるのか。深く考えました。
どういう人間になりたいんだろう?起業するという、つまり自分自身の手で人生を切り開いていく人生経験を通じて、どういう人間になりたいのだろう?ということを深く問いました。
おそらく自己分析のノート4、5冊ほどだったと思います。沢山コーチングを受けて自己分析をしました。結果、
『人類史に名を刻むもっと大きく雄大な人生を歩むために、そのために最も試練の多い道に行こう。』
にたどり着きました。
歴史上の偉人で大きくなった人を見ると、皆さんとんでもないほど深い谷を経験しているという共通項がありました。
だから、人生の種まきの時期に、最も試練の多い道に行くことを決めました。
少しずつaiRを知って頂けるように。
嬉しかったな。みんなで頑張った埼玉のPR
結果から言うと、全く後悔していません。
普通の人生では経験できないことを、人生の早い段階で経験できたことで、
佐藤彰真と言う男の器が大きくなりました。
学生起業のリアル。
ワイのTwitter
ここからは、起業してから実際に自分が経験したドキュメンタリーをお話しします。嘘じゃないですよ。本当の話です。
生々しいので、覚悟して読んでくださいね。
22歳 年収12万円
周りの友人が社会人1年目の時に僕は起業しました。
当時今でも覚えているのですが、『新卒の同期と飲み会』『入社式』などなど、一緒に働く仲間たちとのイベントや機会があることをとても羨ましかっったのを覚えています。
僕に関して言えば、当時はクライアントもいなかったし、営業しても契約なんて全然決まりませんでした。
21歳〜25歳まで、有機野菜のお店でボランティアしてました。
駒沢にあるアイアイマーケット🥦
メールは平日1日に100通おくって(土日に家のそばの蔦屋家電で雑誌を読み漁り、メルアポリストを作成していました)、途中から電話営業もしていました。ものの見事に全部ダメでした。創業してから6ヶ月で売り上げた合計金額は、100万円くらいだったと思います。そんな業績なので当時の月収は1万円でした。所得税引かれて9,500円でした。とてもじゃないけど生活できなかったので、アルバイトをしながらなんとか食いつなぎました。
それでも家賃が払えなかったりしたので、Uberの配達員をしてなんとかお金を貯めて頑張りました。
当時の僕に、今のような生活ができるかどうかを問うてみたら、絶対に想像できないと言うと思います。
毎週週次で定例をしていたのですが、その際に営業の結果を報告するんですね。それが本当に嫌だった笑だって何も案件決まってないし、全てダメだったので、本当に自分自身にセンスがないんだなあ、っていつも自己肯定感が下がってましたね。
創業期。しんどかった時に祖母から急に電話が来て
孤独だった僕の心を潤してくれて号泣した。
孤独で本当に辛かったです。お金もない、何もない。来月生きるお金すら、ない。でも謎に希望がある、根拠のない未来への自信があるのみでした。
よく一人で深夜河川敷を歩きながら、嵐のファイトソングを聴いて、明日からも頑張ろうと、そう奮い立たせていました。
初めて月商が3桁行ったとき。嬉しかったなあ。
他にもいろんなことが重なって、
10年分は一人で苦しくて泣いたんじゃないかな。それくらい大変でしたよ。
給料が払えなくて人生初の消費者金融へ。
人生は面白いもので。
そんなこんなんで毎日毎日、悔しくて唇を噛み締める日々を1年半くらい過ごすと、いつの間にか会社の売上は伸びて行きました。
確か、創業してから1年半くらいで月商1000万円は超えました。
社員(当時はフルタイムの業務委託)が8名かな。最大で。
販管費もどんどん増えて行きました。経営の「け」の字も知らなかった僕は、1年半鍛えた営業力でひたすら営業をしました。30万円/月のSNS運用をメインで確か1億くらいまでやってました。(今思うとすごいな笑)
ひたすら仕事しました。ひたすらに。とにかく毎日提案資料を作ってクライアントの元に話に行って、営業しました。
成果を出して信頼されればされるほどどんどん大きくなる予算。とても楽しかったです。(これは今も楽しいです。)
一方で、当時24歳だった僕は、売上を伸ばすことに集中しすぎて内部のケアまで神経が回っていませんでした。営業すればするほど、逼迫する社内リソース。さらには不満が蔓延しどんどんコミュニケーションが軽視化されて行きました。
もうこの時期は、2度と経験したくないです。売上も大事だけど、役割ごとにみんなで一生懸命頑張って、みんなで走るということが何よりも人生において大事であると深く学習しました。
結果、組織は一度空中分解、つまり解散しました。
最後は案件を放棄する方もいらっしゃったので、その分の補填で自分個人のお金も会社に入れ、友人から数百万円借り、なんとか会社を延命しました。(もう借りたお金は返しました。)
創業期。人格の確認と点検を毎日していた。
もう一回やろうかな。
8人いた組織が1人になると、特に一気にバックオフィスが形骸化します。
請求書を出せてなかったりして入金がなく、人生で初めて消費者金融に行ってお金を借りて各所に支払いをしました。
なんとも言えない感情だったのを今でも覚えています。
空中分解の件でとても反省し自分を責めました。
流せる涙は、もう流しきったので、感情は無でした。何もなかったです。嬉しいも悲しいも悔しいも、何も感じませんでした。無。これも人生か。そんな感じでしたね。
自分1人では、もう立ち上がる心も身体もなかった。
この時、今のaiRの人事顧問をやってくださっている鈴木さんが、『もう一
回、頑張ろう。』とそう一言くれました。
実際のライン
実際のライン。表参道のAppleで苦し過ぎて泣いた。笑
鈴木さんは、不動産会社を20年以上経営している方で僕はこの方の息子の家庭教師を大学生の頃ずっとしていましたので、もう東京の父親です
今でも、絶大な信頼をおいています。
そんなこんなで、もう辞めたい、限界だと思った時期もありました。それでも、周囲の支えと自分の信念でもう一度頑張ることを決意しました。
鈴木さんの他にも、周りで『彰真、もう一回頑張ろう』、そう支えてくれる仲間や、なんならそのタイミングで高校の同級生である久保田は入社を決意してくれました。
自分の愛車で、鈴木さんと一緒に行った火おこし。
火の起こし方を通じて、心の火の起こし方も学びました
僕は、この時に強く思いました。
『僕自身が成功するのもそうだけど、周りで一緒に働いてくれるメンバーと一緒に成功しよう。』と。
社員のインタビュー記事。みんなで成功したいという伝思いが伝わっていて嬉しかった。
ここからが第二創業フェーズです。
まあそんなこんなで、なんとか5年間会社経営を続けてこれました。
これは、間違いなく自分のおかげではなく、周りの方々に支えれたおかげです。
一人一人名前を挙げるとキリがないので、割愛しますが、
していただいたご恩を、僕はずっと忘れません。
あの時かけてくださった言葉、あの時持ってきてくれた薬、あの時事務所にわざわざきてくれたメンバー、あの時作ってくれたお弁当。
一人の人間として、もっと成長し、大きな器を身につけ、恩返しがしたいです。
aiRは、振り返ると下記のようなサイクルで成長してきました。
1期〜3期目:学生起業でみんなでとにかく働くまるで部活のような会社。
4期目:組織崩壊からの復活。
5期目〜:第二創業
YoYは130~200%前後の成長企業
僕自身一見ハイパフォーマープレイヤーと思われがちですが、自分には注意力や整理整頓が苦手な一面もあります。それ以上に熱意と行動力で、凌駕するくらい日々働いている自負もありますが笑
ただ、なんだかんだでYoYは常時130%~200%成長できています。
特に4期目なんて奇跡の連続だと思います。
3期目後半の影響もあり、4期目の前半までは赤字の月も多かったです。
資金繰り、めっっちゃ大変だった。よく耐えたと思います。
そこから、一気に会社は盛り上がって行きました。
月商も急伸し、案件の数も増えた4期目後半。
二次関数で行くと、びっくりするほど急なカーブを描いて4期目を終えました。
ワークライフバランスって何?
aiRは、トレンドを押さえたSNS事業で死ぬ気で働き成果をあげ、しっかりと遊ぶ集団。
世の中には“ワークライフバランス”を大切にする考え方もありますが、私たちは“熱中して働くこと”に価値を感じている人に向いた会社です。
ワークライフバランスは、しっかり仕事と向き合って、自分自身と向き合った人生経験があるからこそ、到達できる生活スタイルだと思っています。
私は、社会人になって仕事を通して人間的に大きく成長できたと感じています。そのため、個人的には一番人間的に成長できるのは仕事なのではないかと考えています。
もちろん、恋愛や家庭、趣味といった経験も、人生を豊かにする大切な要素だと思いますが、胆力をつけると言う意味では仕事が一番なのではないかと。
aiRは、間違いなく他の会社よりも業務量が多く大変だと思います。
一方で、他の会社では経験できないことがたくさんできます。すぐに成長していくと思います。そして、会社の報酬設計も働けば働くほどもらえるように全て設計し直しています。
人生には、平日も土日も関係なく夢中に働く期間があっても良いのではないでしょうか。
40代・50代になってその働き方をしようとすると、他にも背負うべきものがあってできない事が多々あると思います。
会社合宿
人生の若いうちに熱心に無我夢中で働く経験は、人生を豊かに生きたいのであれば間違いなく必要だと思います。
よく、ファーストキャリアで人生に迷う人がいますよね。僕もアドバイスを求められる事がよくあります。
僕は『情熱を持って働くということ事が経験できる環境に行きなさい』そう伝えています。
情熱は、不可能を可能にします。この、一見無理だ!と思えるような不可能に近い仕事を情熱を武器に熱心に取り組み、成功経験に変える。
この経験が若いうちにできると人生は大きく変わると思います。自分が実際にそうでした。
19歳まで、受験もスポーツも全てうまくいかなくて、挫折ばかりの人生。
自分自身の魅力なんてわかりませんでした。
小学6年生の頃には、自分で首をつって死のうと思った事があります。それくらい自分の人生の価値がわかりませんでした。
でも今は人生で初めて自分に自信があります。
それは真剣に仕事と向き合い、嘘偽りなく一生懸命毎日生きてきたこの社会人人生の軌跡あるからです。
僕はこの会社に人生の全てを賭ける。
社会人になってからの人生と常に伴走してきたこの会社は、僕の人生の全てです。私生活のほとんどを犠牲にして共に走ってきました。アホみたいに、狂ったように働いてきました。土日も休みなく5年やってきました。
そんな中でまずは納得いくまで個人の生活を豊かにして、周りの友人インフルエンサー(登録者数400万とかのYouTuberとか)たちが送ってる生活を一回経験しないと私生活も全て犠牲にして向き合った対価としては自分自身に不満が溜まりきってしまって、気が済まなかったです。
人の夢は、絶対応援。
『こんな苦労して彼らと変わらないくらいに業績上げてるのに、なんで同世代のあいつらと一緒の生活できねえんだよ』
と言う自分自身に対するフラストレーションが溜まって行きました。26.27歳はまず自分欲を満たしました。そしてもう一通り経験できたと思います。
そんなに楽しくありませんでした。
尊敬するオーバーフローの町山社長
『この会社は俺の全てだから』という一言に経営者としての覚悟を学ばせていただきました。
今までと変わらずなんなら今まで積み上げてきた実績と歩んできた実践知を土台に、僕は更にこの会社に命を賭けて行きます。
そして、一人で豊かになっても楽しくなかったからこそ、
次は、みんなで豊かになりたいです。
これからもたくさんの課題にぶつかり、正念場にあたるでしょう。
これからは一人で解決せず、みんなで解決し、会社を大きくするのではなく、この会社の方向性やカルチャーや体質を理解してくれるメンバーと強固で強靭な組織を創ります。
みんなでもっとビックなことを実現して、その報酬をみんなで分け合いましょう。一人でやると不可能なことも、手を取り合いみんなで協力すれば不可能はありません。そう信じています。
きっと仕事人生において、最も楽しく豊かな瞬間は、数多の札束を手に入れた瞬間ではなく、その過程において、四苦八苦し汗も涙も流して苦労を共にした心の通う仲間を増やすことにあるのではないでしょうか。
最後に
長かったですよね笑
まあここに書いたことは、公にできることの一部にしかすぎなくて、もっと生々しく泥臭いことは数えきれないほどありますし、お話しできると思います。このnoteを見て、僕自身の性格や人となり、少しは伝わったかな。伝わっていると嬉しいです。
一通り苦しい経験をしてきた(している?)今だからこそ言えるのは、
僕は心の通う仲間たちと一緒に、さらに強く強靭なチームを創り、メーカーも世の中も同時にワクワクさせられるような広告を仕掛けて行きたいです。
素敵な未来、豊かな人生を築き上げて行きたいそこのあなたへ!
もしよければ、その未来を一緒に創らせていただけませんか?
いつでもご連絡、DMお待ちしています。
最近X公開にしました笑DMお待ちしてます笑