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街をつくりだす「人」の思いを形にしていきたい 岡田崇×糀屋総一朗対談1 引用先:ローカルツーリズムマガジン

https://note.com/localtourism/n/nf8c33a030fa1 (引用先 ローカルツーリズムマガジン)


ローカルツーリズム株式会社に戦略アドバイザーとして参画している岡田崇氏。ローカルツーリズム社代表の糀屋総一朗との対談を通じて、これまでの経歴と仕事への考え方、地域再生への思いなどを掘り下げます。初回は、岡田さんのこれまでの経歴と仕事への思いについてなどです。

人を喜ばせる空間を作りたくて

糀屋総一朗(以下、糀屋):岡田さんとは、1年ほど前に知人を介して銀座の鉄板焼屋さんで紹介していただいたのが初めてのご縁です。事前に経歴をお伺いしていて緊張しながらお会いしたら、めちゃめちゃフランクでお話しやすくて……僕の取り組んでいる事業に対しても共感いただいて、すごくいい出会いでした。岡田さんとお話していると、常に本音で話している感じがするというか、建前はあまりないなと感じていて……

岡田崇(以下、岡田):そうですね(笑)。行きたくもないのに「今度飲みに行きましょうよ」的な社交辞令は絶対に言わないです。子供にも「遊びに行こうよ」と言ったことないですね。「パパが厳しいんじゃないよ、社会が厳しいんだよ」なんて言ったりしてますね(笑)。

糀屋:厳しい(笑)。今回はまず岡田さんがどんなお仕事をされてきたか、からお伺いしたいと思っているんですが、原点のようなものはあるんでしょうか。

岡田:もともと「人を喜ばせたい」という気持ちが強い方だし、日本人はみんな大なり小なりそういう性質があるとは思うんですが、「気にしい」なんですよね。僕は鳥取県米子市の出身なんですが、僕が中1のときに母が突然「喫茶店をやる」と言い出して、純喫茶を始めたんです。米子は小さい町なんですが、コーヒー文化が盛んでたちまち大人気店になりました。結局昨年の12月に閉めるまで35年間、ずっと大盛況でした。

もちろんたくさんの常連さんがいるわけなんですけど、店主である母とお客さんの「つかず離れずの距離感」みたいなのがすごくいいな、こういう空間づくりって大事だなと思ってずっと見ていたところはあるんですよ。

糀屋:なるほど。

岡田:高校卒業後は関東の国立大学に入学して、サッカー部に入ってスポーツに打ち込みました。体育会系ですけど、自分が「おかしい」と思ったことは相手が先輩であろうとどんどん意見するような……まあ生意気なやつだったと思います(笑)。卒業後はゼネコンに入社したんですが、1年で退職してしまいました。

糀屋:合わなかったということですか?

岡田:入社したら違和感しかなかったんです。もともと先輩にも意見するぐらい、自由闊達な雰囲気が好きなタイプなのに、単に「上司だから偉い」「上の言うことは絶対」みたいな雰囲気になじめなくて……。それと、安心安全を是としているので、前例のないことはほとんどやらないという感じで、魅力を感じませんでした。自分の見える範囲にロールモデルのような方がいればまた違ったんでしょうけど、見当たらなかったんですよね。

糀屋:たしかにロールモデルは重要ですね。

岡田:まあ、若気の至りもありますけどね。「自分にはもっと可能性があるんじゃないか」とも思ってましたし。その頃からおぼろげながら空間を作って人をもてなしたり、クリエイティブな仕事をやりたいと思っていました。当時はカフェブームでもあったので、そういうのをやれたらかっこいいなとか。お店に食べ歩きに行っては、「ここは何席だから、賃料がいくらで、売上がこれぐらい立って、人件費はこれぐらいかかって……」と勝手に計算してました(笑)。

糀屋:誰にも頼まれてないのに(笑)。もう、コンサルの素質ありますね。

岡田:ありがとうございます(笑)。企画というより妄想の範囲に近いですが、そうやって考えたり計算したりするのが面白いなと思ってたんですよね。それから飲食のことを学びたくて、当時特にイケイケだったグローバルダイニングでアルバイトをしたり、深沢の緑道沿いで知り合いと一緒に期間限定のカフェをやったりもしてました。

100年先も残るかどうかを考えて

糀屋:そのあと株式会社Plan・Do・See(プラン・ドゥ・シー、以下PDS)に入社されたと思うんですが、ここはどういった経緯で?

岡田:富ヶ谷のカフェに入り浸っていたら他の常連さんとだんだん顔なじみになって、話すようになったんです。その中にたまたま中村悌二さんという、長く愛される和食のお店をプロデュースされている方がいたんです。ちょうどグローバルダイニングをやめるタイミングで、カフェだけではもうからないな、お酒の勉強をしたいなと思っていると話したら「ぴったりのやつがいるよ」と紹介してくれて。それがPDSの代表の野田豊さんです。

糀屋:じゃあ、面接されて?

岡田:実は、野田が僕の「国立大」、「サッカー全国経験」「グローバルダイニング出身」「ゼネコン」という経歴を気に入ってくれて、面接なし即採用! となったんです。野田は常々「見ている世界が人を作る」と言っていて、その観点から僕の通ってきた道は当時の野田にとって「合格」ということだったのかなとも思います。

糀屋:「見ている世界が人を作る」、間違いないですね。それで結局PDSでは何年?

岡田:20年働きました。施設開発、地方の旅館の再生、大手ホテルのコンサルと、施設に関わるいろいろなプロジェクトに携わらせてもらいました。

糀屋:特に印象に残っているプロジェクトってありますか?

岡田:うーん……まあ、全部が印象的だったですね(笑)。よく青春って10代、中高生のものみたいな文脈で語られますけど、僕にとってPDSにいた20代から30代、全部青春みたいな感じでした。

あえてあげるとしたら、33〜34歳の時に担当したオリエンタルホテル神戸の復活プロジェクトですね。もともと1870年(明治3年)にオープンした日本で最古のホテルの1つと言われていたホテルです。阪神淡路大震災で半壊してしまい取り壊され、一度神戸の街からホテルが消えてしまったんですね。でも街の人の記憶や思い出の姿として大きく、「再生してほしい」という声はずっとあったんです。

三井不動産主体の開発で、オリエンタルホテルの再生プロジェクトが立ち上がりました。PDSのプロジェクト総費用20億円を超える、彼らにとって当時超大型案件だったんですけど、はじめはPDS側の担当は僕一人でした。当時はまだ無茶苦茶な会社だったんですよ(笑)。開業前後の3カ月ぐらいは一切記憶がないぐらい働いていました。

糀屋:街の記憶とそれに紐づくものって、すごく重要ですよね。街は生き物だと思うんです。街の記憶こそがその街の良さにつながると思うんです。

岡田:そうなんですよ。「制作物が100年先も残っているかどうか」ってすごく重要だと思っていて。普遍的に愛されていくもの、その街や空間に受け入れられるかどうかが大事なんだと思っています。

最近では盛んに「DX」「IOT」「ロボティクス」なんてワードが流行っていますが、「それって人間としてうれしいの?」ってことが重要かと。「人」の気持ちが動くことがもっと大事にされるべきなんじゃないかなあと考えてます。

糀屋:まさにそのとおりですね。



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