昨日の新聞で興味深い記事を見つけた。
ある研究所のアジア太平洋14ヵ国・地域を対象にした調査で、「現在の職場で継続して働きたい人」も「転職意向のある人」も日本が対象国中で最低だったというのだ。今の仕事にたいして愛着はないが、かといってそこを抜け出して新天地に飛び込むほどのエネルギーもないといった世情を反映しているという。うすうす感じてはいたことだけれど、これは相当によくないことになっている。
だから会社はもっと考えた方がいいよね、と続く文脈の中で語られているのが新聞の記事なのだけど、いやいやそこに持っていくこと自体が問題なんだよ、と言いたくなる。
働く魅力のない会社は、優秀な人をキープできなくなるから、そこで会社は否応なしに会社のあり方、働き方を考え直すことになるというのが本来の流れであるべきだ。 つまりイニシアティブは常に個人のほうにある社会にすることが大切なのであって、いつまでたっても会社とか、組織とかがその上位にいて社会を正しい方向に導くべきだみたいな話をしていては、個人の権利がいつまでたっても確立されない国ということになってしまうだろう。
いっぽうで、出身大学クラブの後輩とかの動向を耳にすると、世間的にいい会社とされる企業に就職した学生も3年程度でどんどん転職していて、自分のやる気やリスク管理を自らマネージしようとする若者の出現に頼もしさを感じることもある。
そこで考えたのは、その新聞の記者は転職もしないだろうし、そもそもそのようなバイアス(組織が主導できるものと考える人によって成立している)のかかった組織で働くことを選択し続けている人じゃないかということで、その調査データを取り上げたことの客観性も疑問だなとの自分の結論にいたった。
このことを書く前に、人事担当に「これ読んでおいて」と渡してしまっていた。その後に感想を聞いたり、説明を付け加えたりしないので、彼女は素直に社長の意向として読んだかもしれない。でも、こうしたものをヒントに考える契機にして欲しいだけ。 それじゃあ学校ぽくて会社としては不適切かもしれないけれど、新聞に載っていても社長から来る話であっても常に疑問はもっていないといけない。
話は少しもどるけど、会社の経営者としては、魅力ある仕事を創出することで貢献したいと思う一方で、仕事の満足感が何かを自分で定義できる個人を育てる社風も作りたいと思っている。 そのためには、自分の適性の認識と自分のやりたいことのすり合わせができるような機会を与えることが、社長からだけではなく各レベルで大切なことだろう。
最終的に、この会社とは合わなくなった、ここはいいけどこの会社はここがダメだと指摘されて、苦い思いと共に人材を失うことも少なくない。けれど少なくともこの会社にいる間に、その人が自分が充たされる仕事って何なのだ、将来的にどうなればいいんだろう、という考えを深めることが出来たとしたら、会社としては貢献できたと考えられるしうれしい。
そして、新しいチャレンジを選ぶ人をbest luck!と喜んで送り出す度量を持ち合わせることを忘れず、彼らがその後さらに充たされたキャリアを重ねられるよう心から望むのである。
<<写真は4年前にロシアで撮ったもの、かの地にも個人は存在していたのだが>>