Adventure by Atmoph
「日々を、冒険にする」アトモフのブログ。Atmoph Windowのストーリーや、旅行、ライフスタイルなどを、Atmophのテイストで取り上げていきます。
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バックオフィス担当の市川です。
京都の田舎で生まれ育ち、10年ほど違う街に住んだ後、数年前に京都に戻ったとき、故郷をもっと知りたくなり、京都検定という試験を受けてみました。
歴史やエピソードを改めて知っていくと、見慣れた通りや文化財も新鮮に目に映るようになります。中でも興味深かったのは、明治期。
東京奠都(てんと)により人口が流出、産業も衰退し、寂れた京都を盛り上げるため、古都のイメージに似つかわしくない、ありとあらゆる先進的な改革が起こります。
今回は特に好きなエピソード3つを紹介します。
日本初の小学校は、アトモフオフィスのすぐそばにあったそうです。アトモフは御池通りを挟んだ場所です。本当に近い!
新しい明治という時代がまだどうなるかわからないタイミングで、地元の有力者が土地やお金、知恵を出し合って子どもの教育の場をつくったというのは、長きにわたり文化を担ってきた町衆の意地やプライド、先見性が感じられます。
その後も、京都の都市部では地元の人たちの寄付により、街のシンボルとして立派な校舎が多く建てられました。
昭和期のモダンな校舎は閉校後も役割を変えて活躍し、烏丸御池の旧・龍池小学校は「京都国際マンガミュージアム」に、四条烏丸の旧・明倫小学校は「京都芸術センター」に、木屋町高瀬川沿の旧・立誠小学校は「立誠ガーデン ヒューリック京都」に、旧・清水小学校は昨年「ザ・ホテル青龍 京都清水」として生まれ変わって、愛され続けています。
琵琶湖から水を引くための疎水事業は、明治16年、21歳の田辺朔郎という若き技術者に設計が任せられました。当時、近代的な土木を本格的に学んだ人間が少なかったとはいえ、巨大事業を若い技師に任せる思い切りの良さには驚かされます。
蹴上のインクラインは疎水を運輸に使っていた際の名残で、すぐ近くには赤レンガの水力発電所があります。桜の季節は特に美しいです。
ドラマなどでよく見る南禅寺の水路閣も田辺朔郎氏がデザイン・設計したことは、このブログを書くために調べて初めて知りました!お寺の中に突然現れる赤レンガのアーチ、今でこそ誰もが美しさを理解できますが、当時は費用的にも美的感覚的にも相当奇抜だったのではないでしょうか。
疎水完成後、財界人はこぞって南禅寺周辺に別荘を建て、疎水の水を引いて池や滝をつくり、作庭を楽しんだそうです。ほとんどの別荘は非公開ですが、山県有朋の無鄰菴(むりんあん)は通年見学可能です。水の安定供給の目的から始まった疎水事業は、思い切った決断の連続により多くの文化や新たな京都の魅力を生み出しました。
若者エピソードが続きます。
平安神宮は、明治28年に「平安遷都千百年」を記念し、平安京大内裏を復元してつくられました。もう完全に都は東京に移っており、古都の正統性をアピールすることが重要だったのでしょう。
共同設計者のひとりで、実質的に理論や設計を担ったと言われているのが伊藤忠太、任命当時26歳。正統性と歴史をアピールする事業は若者に託されて未来につながり、120年以上経った現在でも愛されています。平安神宮には京都を守る守護神である4種類の動物モチーフが隠れています。ぜひ探してみてください。
ちなみに、高台寺付近に行った人の多くが「あれなんだ?」と不思議に思う、何やら長い棒のようなものが建物の上に伸びる「祇園閣」も伊藤忠太氏の設計です。中身はもっと不思議なので、特別公開のタイミングにどうぞ。
明治の京都にはその他にも、二代目府知事は近代化を急ぐあまり、「非科学的」と剣術や五山の送り火を禁止したという、今から思うと無茶苦茶なエピソードも!古都はずっと古都であったような気がしますが、実は無数のアドベンチャーを積み重ねて現在の京都があります。
Atmoph Window 2 では、有名な観光名所から日常風景、職人さんの仕事場など、さまざまな京都の顔を楽しめます。ぜひ実際にいらして、いろんな京都をお楽しみください。