こんにちは!崔志遠です。
朝の満員電車に揺られていると、ふとした瞬間に隣に座っている人の存在が、一冊の古い辞書のように見えてくることがあります。
そこには膨大な言葉が詰まっているはずなのに、表紙は手垢で汚れ、中身は誰にも読まれないまま時間だけが過ぎていく。
そんな光景を眺めていると、私たちが日々行っている「仕事」という営みの正体について考え込んでしまいます。
多くの人は、自分たちが何かを積み上げ、新しい価値を作り出していると信じて疑いません。
しかし、その実態は、巨大な海辺に打ち寄せられた色とりどりの貝殻を、ただ左から右へと並べ替えているだけではないでしょうか。
砂浜に描かれた幾何学模様は、潮が満ちれば一瞬で消え去り、そこには何も残らない。
私は日々、コンピュータの中に小さな庭園を造るような作業を繰り返しています。
そこでは植物たちが一糸乱れぬ動きで成長し、決まった時間に花を咲かせます。
その様子は、まるで精巧に作られた万華鏡を覗き込んでいるかのようです。
しかし、その万華鏡の筒を回しているのは、果たして私の指先なのでしょうか。
それとも、もっと大きな何かが、私の背後から糸を引いて操っているのでしょうか。
ふとした拍子に、部屋の隅にある古い蓄音機が、針も置いていないのに音を奏で始めることがあります。
その音色は、かつて誰かが忘れていった感情の残滓が、空気の振動となって再現されたものかもしれません。
私たちは、効率という名の透明な檻の中に閉じ込められ、数字という記号に一喜一憂しています。
ですが、その記号の羅列の向こう側に、本当の空が広がっている保証はどこにもありません。
窓の外を飛ぶ鳥たちが、実は緻密に計算された紙飛行機だったとしても、私たちはそれに気づかずに一日を終えるでしょう。
昨日、使い古した青いインクのペンで紙に円を描いたら、その円の中から小さな光の粒が溢れ出してきました。
それは、現実という膜に開いた小さな穴から漏れ出た、別の世界の断片だったのかもしれません。
私たちは、その穴を塞ぐために新しい技術を開発し、また別の穴を開けては塞ぐという作業を、永遠に繰り返しているのです。
足元を流れる影が、自分とは全く違う動きをしていることに気づいたとき、私はただ静かに目を閉じました。
暗闇の中で聞こえる微かな機械音は、明日が来るのを知らせているのではなく、世界が再起動するための合図のように響いています。
次に目を開けたとき、私の目の前に広がっているのは、昨日と同じオフィスなのでしょうか。
それとも、まだ誰も名前をつけていない、名もなき荒野なのでしょうか。