「純粋なファクト」など存在しない。―――私たちが知覚した事実の正体
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■ ファクトベース
「感情論はやめて、ファクトベースで話そう」良くも悪くも 意識の高い学生同士の議論でこの言葉はよく使わています。数字・データ・エビデンス。 これらを並べることは客観的で・議論を進める上で生産的であり・極めて公平です。私自身も議論は「ファクトベース」であるべきだと考えます。
一見万能に見える「ファクトベース」の考え方ですが一点だけ注意すべき事があると私は考えます。それは個人が「知覚した事実」は事実全体の一部に過ぎないという事です。
■ 写真家が「フレーム」を選ぶように
例えば、あなたがカメラを持って風景を撮るとします。 「綺麗な花」を撮るのか、「その横にあるゴミ」を撮るのか。 どちらもそこにある「事実」です。しかし、どちらをフレームに収めるかを選んだのは、撮影者の「価値判断」です。
ビジネスや議論もこれと同じではないでしょうか。(ビジネスコンテストのようなままごとの経験はあっても、本格的に働いた事は無いので適切な例が思いつきませんが・・・)
■ 脳は「見たいもの」しか見ない
これは脳科学的にも証明されている事実です。
人間の脳には、「RAS(網様体賦活系)」というフィルター機能が備わっています。 私たちの脳は、毎秒入ってくる膨大な情報すべてを処理することはできません。そのため、「自分にとって重要だ(関心がある)」と判断した情報以外は、意識に上がらないようにシャットアウトする仕組みになっているのです。
つまり、私たちは生理学的にも、世界をありのままに見ているのではなく、「自分の関心」というフィルターを通して編集された世界を見ているに過ぎません。恐ろしいのは、「ファクトベースで」と言う人が、自分がフィルターを通していることに無自覚なまま「自分が知覚したファクト=世界の全て」のように語ってしまうことです。
■ N=1の熱量は「ファクト」ではないのか?
夏休みの前に参加したインターンシップでこんな経験をしました。 私が数名のユーザーへの電話ヒアリングで得た「ユーザーのニーズ/抱えているお困りごと」を共有し・そこをベースにペルソナ設計をしてサービスを考えていこうと提案した時のこと。 チームメンバーは冷ややかにこう言いました。
「それ、N=1(たった一人の感想)だよね? ファクトとしては弱いよ。」
彼にとって、RAS(脳のフィルター)を通過する「重要なファクト」は、統計的な数字だったのでしょう。 しかし、目の前の人間が心を震わせたという出来事もまた、紛れもない「ファクト」です。
彼は「客観性」という鎧を着ていましたが、実際には「定性的なファクト(感情)よりも、定量的なファクト(数字)の方が偉い」という、極めて主観的な「信仰」を押し付けていただけに過ぎません。 (もっともこれは私にも言える事です。私はN=1の意見こそ最も重要なファクトであるという信仰を押し付けていました。数名しかインタビューしていないのに強く押し出しすぎた事も反省しています。)
私たちは「ファクトを見よう」と言いながら、実は「自分が見たいファクト」だけをつまみ食いしているのです。
■ あなたは、どんな「レンズ」で世界を見るか
純粋な客観性など存在しません。 私たちは全員、脳のフィルター(RAS)や価値観という「レンズ」を通してしか世界を見ることができないからです。だからこそ私は、「自分がどんなレンズを掛けているか」に自覚的でありたいと思います。
私は今、「ビジネス系の勉強(ビジネスモデルの分析など、全体から考える)」と「デザイン系の勉強(UXデザインを中心として、N=1から考える)」の両方を学んでいます。 それは、自分の中に複数の「レンズ」を持ち多角的にファクトを集める事のできる人間になりたいからです。
一つのファクトに固執するのではなく、状況に応じてレンズを掛け替え・多様な「事実」を発見できる未来の設計者でありたい。 そう願って、今日も思考を続けています。
■ 次回予告:効率的/生産的である事は本当に合理的なのか?
生産的であるすなわち算術的な思考をして成果を出すこと。 それは資本主義において正しい考え方とされています。生産的である事は本当に最大の成果につながるのか・何故合理的である事を我々は求めてしまうのかなどについて大学で学んでいる経済史/経済思想史の知見を交えつつ私の意見を述べさせて頂きます。
引き続きよろしくお願いいたします。