【福本潤・元医師】椅子の気持ちを想像する日
Photo by Kelly Miller on Unsplash
私はよく椅子の気持ちを考える。カフェでノートPCを開いたとき、図書館で本を読みふけったとき、オフィスで会議が長引いたとき、黙って人間を支え続けている椅子たちの声を聞こうとする。背もたれは「今日も寄りかかっていいよ」と言い、座面は「もう少し姿勢を正したらどうだろう」と小言をこぼしているかもしれない。
人間は椅子に座ることを当然のように受け入れているが、椅子の側からすれば一日中同じ人を支えるのも大変だ。カフェでは数十分ごとに利用者が入れ替わり、軽快なテンポで役割を果たしているが、会議室の椅子は耐久レースのような状況に置かれている。発言のない沈黙や、同じ資料を見続ける退屈さをすべて背負い込んでいる。
もし椅子に意見を聞けるとしたら、どんな改善提案が飛び出すだろう。座面の角度を一度変えてほしいとか、一定時間で立ち上がらせる仕組みを導入してほしいとか。あるいは「今日こそ立ったまま話し合ってくれ」と叫ぶかもしれない。私たちが働き方を語るとき、椅子の負担を軽くする発想はほとんど出てこない。
思えば、椅子は職場の空気を映す鏡のような存在だ。擦り切れた布地や傾いたキャスターは、そこにいる人の疲れをそのまま物語る。逆に座った瞬間に体を包み込んでくれる椅子は、会社の余裕や気配りを象徴する。オフィスツアーで机やモニターよりも先に椅子を確認したくなるのは、直感的にそれを知っているからだと思う。
最近は在宅ワークが増え、ダイニングチェアに座って仕事をしている人も多い。そこで腰を痛めると「やはり専用の椅子が必要だ」と痛感する。つまり椅子は、働き方を見直す最初の入り口なのかもしれない。豪華なオフィスチェアを買う必要はなくても、自分の体と対話できる椅子を持つことは、自己投資のひとつだ。
私は今日も新しいカフェに入り、背もたれにそっと身を預けながら注文を待つ。椅子の声に耳を澄ませてみると、不思議と自分の体の声まで聞こえてくる。働き方を語るより前に、座り方を見直すことから始めるのも悪くない。