旬の味通信 ― 第三章:日常と旅
旬の味通信 ― 第三章:日常と旅
― 風が運ぶ、ふだんの祈り ―
朝、店の窓を開けると、潮の香りがふっと流れ込んでくる。
台所に差し込む光の角度が、少し変わった。
秋の風が混じってきたのだろう。
何でもないその瞬間に、「あぁ、季節が旅をしている」と思う。
旅というのは、遠くへ行くことだけを指すものではない。
豆腐を仕込む手のぬくもり、塩をひとつまみ加える加減、
月桃の葉を敷くときの香り──
そのすべてが、私の“日常の旅”だ。
風の向きが変わるたびに、心も少しずつ動く。
同じ厨房に立っていても、毎日が小さな旅の連なりなのだと思う。
昼どき、常連のお客様がひとりで来られた。
「この黒糖の味、前よりやさしくなりましたね」と微笑む。
思わず、上原さんの顔が浮かぶ。
あの火のそばで語った言葉──
“苦みを抱いてこそ、甘さが生まれる”──
その余韻が、今日の味に生きている気がした。
厨房の片隅には、ツルさんにもらった月桃の葉が干してある。
ふと風が吹くと、カサカサと音を立てる。
まるで旅の記憶が、葉の間でささやいているようだ。
新里さんの塩も、比嘉さんの豆腐も、
すべては私の手の中で、今も旅を続けている。
夜、店を閉めてから、庭に出る。
月の光が、テーブルに残る水滴を照らしていた。
風がそっと吹き抜け、木の葉が揺れる。
あぁ、この静けさもまた、旅のひとコマなのだ。
どこにも行かずに、心だけがゆるやかに歩いていく。
それが、日常の中にある旅。
旅を終えて戻る場所が、店であり、台所であり、
お客様との会話であることに気づく。
“いただきます”と“ごちそうさま”のあいだには、
いつも小さな祈りが流れている。
それが私にとっての、旅の続きなのだ。