バスタブから見えるお国柄
サインコサインでディレクターをしているこいづかです。
自分のディレクション力を鍛えるべく、日々の生活に紛れている「デザインされたアイデンティティたち」を見つけて、記していこうと思っています。
ロンドンとドイツを旅行したとき、ホテルの部屋にバスタブがありませんでした。
シャワーだけ。最初は「安いホテルだからかな」と思っていたのですが、別のホテルに移っても同じでした。調べてみると、家にもバスタブがないことが珍しくないのだそうです。
日本で暮らしていると、お風呂があるのは当然のことです。疑問にすら思わない。でも海外に行ってみると、当然だと思っていたものの輪郭が急に見えてくるから不思議です。なぜ日本にはバスタブがあって、ヨーロッパにはないのか。気になって、現地で考え始めました。
調べて少しずつわかったのは、そもそもお風呂に対する考え方の前提が違っていた、ということでした。
日本のお風呂は「浸かる」ものです。一日の終わりに湯船に沈んで、疲れを溶かす。汚れを落とすのはその前の洗い場でやることであって、湯船は癒しの場所です。銭湯の文化がそのまま家庭に持ち込まれたような感覚でしょうか。だから日本の家にはバスタブがある。
一方、欧米のシャワーは「汚れを落とす」ための道具なのだそうです。朝起きて浴びる人もいるし、運動の後に浴びる人もいる。機能的で、効率的で、日常の衛生管理の手段。「浸かる」という発想がそもそもない。
では、欧米の人は疲れを癒さないのか。そんなことはないのだそうです。ただ、それはお風呂の役割ではないらしい。疲れを癒すために体を温めたり水に浸かったりするのは、彼らにとってはスパやサウナの領域で、日常の延長ではなく、特別な体験として位置づけられている。ドイツのバーデン・バーデン、ハンガリーのセーチェニ温泉、フィンランドのサウナ。わざわざ出かけていく場所です。
同じ「水」と「体」の関係なのに、日本では日常の儀式、欧米では非日常の体験。
この違いが面白いのは、お風呂という一つの行為の中に、その国の時間の使い方、体との向き合い方、一日の閉じ方が全部入っているからだと思いました。
ちなみに、ヨーロッパにも、テルマエ・ロマエよろしく、公衆浴場の文化がありましたが、ペストなどの疫病が流行した時期に「水に浸かると毒が肌から入る」という誤解が広まり、入浴文化そのものが衰退してしまったと言われています。そこから「水は浸かるものではなく、拭うもの」という発想が定着していったそうです。
日本の方も、実は家庭に内風呂が普及したのは戦後のことなのだそう。江戸時代は銭湯が中心で、庶民の家に風呂があるのはごく一部だったらしい。つまり「毎晩家で湯船に浸かる」という習慣自体は、ここ七十年ほどのものだそうです。
それでも、この習慣が自然に定着したのは、千年以上続く銭湯の文化、さらに遡れば仏教の沐浴思想という土壌があったからではないか。家に内風呂が入ってきたとき、受け入れる地面ができていた。そんなふうに話しているうちに、少しずつ輪郭が見えてきました。
文化は、設備よりも深いところで育つ。そして一度育った土壌は、形を変えても残り続ける。
ブランディングの仕事をしていると、企業のアイデンティティを探す場面があります。らしさを考え出すと、たいてい事業内容や理念の話になる。
でも本当にその企業らしさが現れるのは、
もっと日常的で、本人たちが意識していない場所だったりするかもしれない
と今回のお風呂の話で思いました。会議の始め方、Slackの口調、ランチの取り方、退勤の仕方。意識していない習慣の中にこそ、最も濃い偏りがあるかもしれない。
ロンドンのホテルでシャワーを浴びながら、妙にさっぱりした気分と、どこか物足りない気分を同時に感じていました。体は清潔になったのに、一日が終わった気がしない。あの物足りなさが、たぶん自分の中にある日本の偏りだったのだと思います。普段は見えない。外に出て、問いをぶつけてみて、初めて輪郭が浮かぶ。
お風呂ひとつで、国が見える。そして、その国に生きている自分も見える。偏りを肌で感じることができました。