仕立てを夢見て。
2020年、私は大学生でした。
友人から私服ださいよ。そう言われて私は何がダサいのかわからなかった。
何がダサいのか分からなかった私は友人にどうすればいいか聞いたところ、
良いものを着てみればわかる。と言われて連れて行かれたのがラコステ有楽町店だ。
ラックにかかっているポロシャツはどれも20,000円ほど(当時価格)
心の中で「くそたけえわ、古着だったら何着かえるかな」
と思いつつ真っ白に銀色のワニの刺繍ロゴが入った長袖を購入した。
袖を通した時、いつも古着で買う肌感と明らかに違った。
私は感動して大事に着たと同時にダサいと言われるところかおしゃれと言われるようになった。
そこから自分が好きになれる「ブランド」を探していくにつれ、ファッションが楽しくなってきた。
そこで思ったのが私自身も服でヒトを感動させたいと思い、私は大学卒業後に就職はしないで専門学校へ通う決意をし親に話に行った。
理解のある親で好きなことをしなよと。4大出させてもらって新卒しないでフリーター兼学生をやり直すって考えてみたら親は本当に寛大です。
当時、お金がなかった私は専門学校に一括のお金を納めなければならなかったが私は支払うことができず、何度も通いたいと思った専門学校に足を運び数回目のとき、分割での支払いを認めてくださり私は入学ができた。感謝でしかなかった。
私が通う専門学校は幾つかの通い方があり私は社会人学部という毎週土曜日の授業を1年で四半期ごとに洋服を提出して卒業というプランだ。・・・時間がなかった。
デザインとパターンどちらも学べるコースで毎日が楽しかった。
絵心もなく作るセンスも悪く最初からいい評価とは程遠かった。
しかし私は兎に角1年間で作れるだけ作りたかった。毎週ワイシャツを作ると決めて持っていった。最初のワイシャツの襟は何故か右方向に出来上がってみんなに笑われたっけな。
先生にはなんでも聞いてひたすらワイシャツ作った。
フリーターだったが社会人が働く方々よりも早く動くと決めて当時はカフェ(日本で一番大きい店舗と言われた)で朝5:30から15:00くらいまで働いてそのあとワイシャツをひたすら作る生活をしてたっけな。
そんな生活も1年が経ち卒業できたが私が興味あったのがお直し屋さんだった為すぐに中途採用でお直し屋さんを探して就職した。
ここではミシンと向き合い毎日色々な洋服のお直しをした。アルバイトであったカフェは続けていて掛け持っていた。
ある事件が起きる。私がとある商品をお直ししていたときに丈直しなのがハーフパンツにしてしまう事故が起きてしまった。
お客様は「大丈夫だよー」って言ってくださいましたが人生始めての始末書を書いた。
その後私は退職をし、個人事業主として開業をした。
営業も知らないほぼ見習いのような私がした手法は当時勤めていたカフェに来るお客様に只管手書きで作った名刺に「中谷圭吾」と書いて営業というか声をかけにいった。
中には作ってくださる方もいて嬉しかった。
しかし私は気付きます。一着作るのに1ヶ月以上かかる上に当時は手で設計図を書き自分で生地を購入し、裁断するなんてことをやってて収益が見合わなかった。
気づけば借金が増えていき、私は挫折をしようとしたとき一冊の雑誌に出会う。
JALカードの特典で「アゴラ」という雑誌が毎月届くのですが、その雑誌の一つに世界で活躍する日本人という特集に私は感銘を受けたヒトがいる。
フランスで活躍されるテーラーの「鈴木健次郎氏」だ。
当時facebookが始まったばかりだったのでストーカーにでもなったかのように鈴木氏の名前を検索し本人だとわかったらダイレクトメッセージをした。
そして返事がきたのだ。
3ヶ月後に日本で展示会があるとのことで日程を合わせてくださいました。
少しメッセージでやり取りさせていただき実際に3ヶ月後にお会いすることができました。
なかなか聞けないお話しに感銘しながらも大変貴重で有限な時間をいただいた中で鈴木氏に宣言しました。
私は一度ワイシャツ開業をたたみイタリアで修行するために借金を返済してお金を貯めることを。
結果まだ鈴木氏にはその後のご挨拶はできておらず、必ずいつかご挨拶をしに行こうと決めてあれから14年の年月が経ってしまった。
今日も一生懸命自分の決めた道を進むまでです。
ちなみに今はワイシャツではなくスーツの仕立てをやるパートナーと出会って一緒に仕事をしています。
形は変わっても服飾に関わることはやめれませんでした。