私にとっての「分析」とは
私のキャリアや肩書から、「分析者」「アナリスト」としてご期待をいただくことがあります。
しかし、「分析」という言葉は、便利な言葉である一方で、人によって意味も期待も大きく異なる言葉だと感じています。
私はこれまで専門的に分析手法を体系的に教わってきたわけではありません。そのため、「世の中で想定される分析」と「私が価値を発揮できる分析」の間にギャップがあるかもしれないーーそう感じるようになりました。
そこで今回、「私にとっての分析とは何か」を、自分の言葉で整理してみたいと思い、この記事を書いています。
結論からいいます。
「分析とは、本質を際立たせて浮かび上がらせるスポットライトを使いこなすこと」
分析は、現象をどのような「切り口」でみるか、という意味で、手法も大事ですがそれ以上に、どこに光を当てるのかが重要だと思っています。具体的には「誰にどのような価値を提供するのか」という目的です。
目的が変われば、見る角度も、焦点も、意味づけも変わります。そして、その違いが最終的なアウトプットの価値を決めます。だからこそ、この目的を具体的に決めることが本質であると考えています。
価値を提供するための問いとして「それは具体的にどういうことか?」という”実際”の視点を大事にします。具体的なケース想定をすることで、筋の通った納得感のある内容へと磨きあげていきます。
そのプロセスを重ねるほど、点だった事象が線につながり、やがて構造として立ち上がってくる感覚があります。それはまるで、スポットライトの角度や光量・光の色を変えながら対象の輪郭を少しずつ鮮明にしていく作業に近いものです。解像度高く物事を見ることが出来ると、俯瞰的に全体像が見え始め、さらにそれを体系化しようと、構造化に磨きがかかります。
私は背景や意味を理解したい性分なので、全体構造や仮説の精度を高めようとして「それは何故なのか」を問い続けます。深く掘り下げていくほど、複雑に見えていたものの中に 一本の芯としての本質 が浮かび上がる、そんな感覚があります。
具体の背景や意味を知れば知るほど主語の範囲が適正化され、とてもシンプルで力強い理解に近づける気がします。
人はそれぞれ異なる価値観があります。その価値観の違いが「光」と「影」や「そのコントラスト」を決めます。一方で、本質は変わらないものとして存在している気がします。本質の姿形はじつはよく分かりません。しかし私たちは価値提供という目的に合わせて、適切にスポットライトを当てなくてはなりません。
私は価値提供に適切なスポットライトを一緒にアライメントしていきたい。これが私にとっての分析です。
ここまで述べてきた内容は、私にとっての「分析」の土台となる価値観や視点です。
そして、この考え方は分析に限らず、私が仕事の中で「どの瞬間に力を発揮し、どの状態で機能不全に陥るのか」とも深く結びついています。
その意味で、私が「楽しい」と感じる瞬間と、逆にエネルギーが失われていく状況についても、あわせて整理しておきたいと思います。
私が分析に限らず、「楽しい」と感じるポイント
1) 目的と意味がつながった瞬間
2) ばらばらに見えていた事象が構造的に捉えられ、有機的なつながりがみえた瞬間
3) 複雑さを貫く一本の本質という芯を掴んだ瞬間
4) 既存の前提や枠組みを書き換えて、世界の見え方が更新された瞬間
5) 抽象と具体の往復で、解像度が高まっていく感覚
一方で、私の心から生気が消え、機能不全に陥るポイント
1) 手段が独り歩きし、目的とのつながりが失われたとき
2) 構造が見えず断片的で、関係性や因果がつながらず、部分最適の議論に閉じ込められているとき
3) 核心に迫ることもなく、表層部分に留まっているとき
4) 前提が固定化されて、ありきたりでつまらない結論しか導かれないとき
5) 抽象だけで空中戦になったり、具体だけで枝葉の議論になったりして、解像度が上がらないとき
分析に限りませんが、目的を明確にすることで必然的にやることが整理される、そのような状態をつくることにモチベーションが湧きます。手法や手段のプロフェッショナルは世の中に多くいらっしゃるでしょう。しかし、その前段をいかに整理しているかが実は成果に直結していると考えています。
「現場の誰かの本気に寄り添い、みんなが熱狂して成し遂げたいGOALを共創して没頭できる状態をつくるか」
私は、そこにこそ価値を感じます。