“考える人”を職能にできるか──プレイヤーでも管理職でもない働き方
「プレイヤーか、マネージャーか」
社会人として何年か経験を積むと、そんな二択を迫られるような気がしてくる。成果で語れるエンジニアか、管理や統率を担うマネージャーか。
でも正直、どちらもピンとこない自分がいた。
プレイヤーでいたいほど尖った専門性はない。かといって、マネジメントしたいかというと、人を動かすことにそこまでの快感も自信もない。
だけど「考える」ことは好きだった。全体を俯瞰して、構造を整理して、仕組みを整える。それを続けていたら、いつの間にか周りから相談を受けるようになっていた。
肩書きでは見えない仕事をしていた
会社の中で、自分の“役割”が何なのかを考えたとき、いつもうまく説明できなかった。
たとえば、うまくいっていないチームがあったとする。
声の大きな人が正論を並べていて、若手がついていけず、空気がどこかピリついている。
そんなとき、誰が悪いとか決めつけるよりも、「ここって、役割の認識ずれてませんか?」とか「それって、◯◯の前提が抜けてるかも」と問いを差し出す。
すると場が少し柔らかくなる。それが自分のやってきた仕事だった。
でも、それは「成果」にはなりづらい。
ドキュメントにも、稟議にも、評価シートにも、記録されない。
「考えるだけで動けない奴」と言われる怖さ
一方で、怖さもある。
僕はずっと、「頭でっかちだよね」と言われるのが怖かった。
考えることばかりして、手が動いてないんじゃないか。
批判するばかりで、現場の実行に責任を負ってないんじゃないか。
そんなふうに思われるのが、嫌だった。悔しかった。
だから、ちゃんと現場もやる。指示されなくても、裏方の作業を進める。
でも、本当はそれよりも見てほしかったのは、「なぜこの問題が起きているかを考えていた時間」だった。
「思考する」ことは、職能になり得るか?
そんな中でふと思った。
「考える」こと自体が、もっと評価されてもいいんじゃないか。
- 問いを立てること
- 違和感を見つけること
- 構造を整えること
- 他人の可能性に気づき、翻訳すること
これらはどれも、「考える」ことがベースになっている。
でも、いまの多くの組織では、“誰かを動かす”ことのほうが評価されやすい。
そうじゃなくて、「考えてくれる人がいる」ことの安心感や安定感を、もっとちゃんと可視化できたらどうだろう。
ミドルシンク型の職能──前には出ない、でも場を整える
自分のように「考えることに軸がある人」が担える役割として、**“ミドルシンク型”**という仮の名前をつけてみた。
- 意思決定はしない。けれど、意思決定者が迷わないように補助線を引く
- 若手の“詰まり”に気づき、「問い」で道を拓く
- 誰が言ったかではなく、「何が起きているか」にフォーカスする
それは、前に立って引っ張る人ではなく、後ろから支える人でもない。
真ん中で、考えている人だ。
自分が目指す“立ち位置”
僕は、必要なら泥臭く手も動かす。
だけど、それよりも信頼してほしいのは、**「考えてること」**だ。
「考えてていいよ。話を聞くよ」
そう言ってくれる人のそばで、静かに問いを差し出し続ける。
その立ち位置にこそ、自分の価値があると、今は思っている。