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社長百景

大学の卒業制作のテーマは「楽園」でした。卒業して、30年以上になるけれど、いまだ卒業制作をやり続けているような感じですね。

私は美大の建築学科だったので、卒業するには、文系のような卒業論文ではなく、卒業制作が必要でした。美大の建築学科は、工学部と違い、構造より、意匠デザイン系の生徒が多く、数学は苦手、でも絵は描ける、的な感じでしたね。

高校は都立で、校舎から多摩川が見え、撮影所も近く、映画やドラマの撮影にも使用される、絵に描いたような青春なロケーションで、家から自転車で通い、天気が良いとコースを変えて、自主的に休講しては、川辺で昼寝や、お弁当、オトナの真似してタバコを吸ったりしてましたね。

そんな高校生も二年生になると、受験のための進路選択をします。塾に行きはじめ、目の色変わる子、内申書を意識して猫かぶる子、一緒に遊んでいた仲間も、それぞれの未来に向け、良くも悪くもオトナへの助走が始まっていったのだと思います。映画「アメリカングラフティー」の、やさしい日本の高校生版の感じですかね。

2,3年生は、1組~5組は理数系志望で、数Ⅲとか物理とかやります。

6組~9組は文科系志望で、世界史とか英語が増えます。で、私はというと10組。

何がやりたいのかよく分からない奴が入る組、だったのでは?と今思います。

10組は、物理も歴史もやらず、趣味やクラブ活動に没頭している子、麻雀の研究に忙しい子、学校に来ない子、逆に何でも器用にできる子、なんかも含まれる、言わば「カテゴリーキラー」だった様にも思います。

クラスを率いる担任の先生は、山登りしたいから夏休みのある職業の教師をやっている、というような先生で、「俺はさ、山が好きだから、みんな自由にやりな。勉強できなくても、下駄履かせてあげるから、何とか特性を活かして大学へ行け、生き方はそれから考えてもいいからさ・・・。」みたいな、枠にはめないという意味で、良い先生でしたね。

と言うわけで、私は、建築に興味があったけど、数学が嫌いで、子供の頃からアトリエで育ったので、絵は少し出来たのと、一人暮らしが出来そうだから、大阪の美大を選択したのです。

で、4年間遊んでばかりで、卒業制作を考えなければならなくなった時、みんな「空港」とか「集合住宅」とか、現実的なテーマが多いんだけれど、まだ大人になり切れない私は、本当に創りたいものがわからなくて悩み、よく分からない「楽園」を創ることになったのです。だから、未だに、自分の会社で、それを創り続けているというわけです。

振り返ると友人たちは、人生の節目、受験や就職のとき、自らを「カテゴライズ」していった気がします。50歳の時、高校のクラス会へ行きましたが、殆どの友人は、その頃の選択の延長にいるんだな、と感じましたね。

私は大学卒業後も、ず~っと自分をカテゴライズしきれず、大きくなっちゃいまして、後に、「社長」という肩書になった時、「ああ、これなら何する人か分からないけど、世の中は納得しやすいな」と、世界での立ち位置が、やっと落ち着いたのを覚えてます。

本人は、いまだ卒業制作をやり続けている学生のような感じなんですがね。

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