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80カ国+米国MBAを経て「地域での挑戦」を選んだ理由とは?

(カバー写真:右端が田村。MBA留学中に参加した世界最大のソーシャルビジネスコンテスト Hult Prize のチームと。)

広島 事業責任者 田村啓のこれまでと今

ー田村(たむけい)さんの経歴を教えてください。

経歴は高校中退です。若かったですね(笑)。テストで0点取る科目もあれば、全国模試で学年トップを取ることもある、扱い難い生徒でした。退学後、地元の水産加工場で働き始めたのが、最初のキャリアです。そこからお金を貯めて、初めて海外を経験しました。スリランカを1ヶ月かけて一周し「世界は広くて面白い! 何も知らないので学ぼう!」と大検を受け、大分県別府市にある立命館アジア太平洋大学(APU)で5年間過ごしました。ニュージーランドやリトアニアに留学する一方、キャンパスがある別府を活性化する観光フリーペーパーを創刊したり、友人とソーシャルビジネスを実践したり、経済を学ぶための投資サークルを作ったりと、私のキャリアの土台は学生時代に育てて頂きました。

卒業後は「秘境系旅行会社」に2年間勤めました。カフェで偶然手に取った写真雑誌に心を奪われてしまったんです。今はもう廃刊になってしまいましたが、『風の旅人』という気合の入りまくった写真とエッセイのみで構成されたもの凄い内容に雷に打たれた気分でした。特にエッセイは「日本の知識人大集合」みたいな陣容で「これは絶対に儲からないだろうけど、ヤバい」と、気づいたら直電してました(笑)。出版元が実は旅行会社で「出版部では採用できないけど、旅行部門では検討できる」と言われ、そのまま潜り込みました。

激しい職場(今なら一発アウト)でしたが、先輩方の多くは大学院卒で、ロシア語やイタリア語など言語や文化の専門性を持ち、仕事に誇りを持って働いていることはヒシヒシ伝わってきました。お客様に対する徹底した価値提供を生み出す企業文化と、大手旅行会社とは全く異なるビジネスモデル(店舗でのカウンター営業ではなく、作り込んだ月刊誌でリピーターを生み出す)は大きな学びでした。

「社会人は逆に世界が狭くなる」と学生時代に知り合った経営者から教えられ、世界を広げる仕組みが必要だと思い、2009年当時はまだ珍しかったコンセプチュアルなシェアハウスを、北池袋で友人たちと運営していました。「若手社会人が集まって、化学変化が起こるような土壌となる場所」という想いを込めてTsuchi Lab.と名付け、3階建ての一軒家を借り切り、一回は完全なフリースペースにして、毎晩帰宅するといつも知らない人がワイワイ集まっている、そんな場所でした。当時の同居人や遊びに来ていた友人知人の中には、ビジネスに限る訳ではないですが、独立して活躍している人や起業家が何人もいます。

海外に飛び出し、人材事業とマネジメントを学ぶ

ーどうして海外で働くことになったのですか?

幼い頃から『東方見聞録』のマルコ・ポーロや『『三大陸周遊記』のイヴン・バットゥータ、日本人なら漂流して米国で教育を受けたジョン万次郎や仏典を求めてチベットを旅した河口慧海などの話に惹かれていました。異国の地で歴史や文化を探究する考古学者や文化人類学者にも憧れました。ビジネス(マイクロファイナンス)を通じて貧困問題に取り組みノーベル平和賞を受けたムハマド・ユヌスが生み出した社会起業家という生き方にも学生時代に感化され、自然と「海外で事業を作りたい」という思いが募っていきました。

強みは何もなく、海外で売りになるのは捻り出しても「日本人であること」くらい。ではその売りを最大限活かして価値を生めそうな場所に行こうと、①日本人が少ない国 ②日本からの投資が今後10年拡大しそうな国 ③マーケットサイズ(人口)が5000万人以上、という3つの条件を当てはめチャレンジする国を決めました。残ったのはバングラデシュとミャンマーだけ。後は、何となく「ミャンマーという響きが素敵だな」と(笑)。

お金もアイデアも人脈も何もなかったので「ミャンマーで事業を起こしたい、ミャンマーで働きたい」と言い続けてみることにしたんです。そんなある日、シェアハウスの同居人が「うちの代表が興味持ってる」と、当時まだ社員300名ほどで上場前のウィルグループ(人材会社)の代表を紹介してくれました。お会いして「ミャンマーで事業やりたい」というと「面白いね。まずはシンガポールの人材会社を買収したから、行かない? 頑張ってくれたらミャンマーも応援するよ」と。厳しくも得難い寄り道でした。

ーシンガポールではどのような経験を積まれたんですか?

「絵に描いたような」プチ修羅場を経験しました。買収したシンガポールの会社に出社すると、私の机も椅子も無いんです。現地法人の代表に言うと「無いよね」と。まぁ、明らかに歓迎されてないんですよ(笑)。要は彼らにとっては親会社から英語も微妙で、現地の商習慣も分からない若造を押し付けられた訳です。完全に無視されてましたね。仕方がないので、一人でIKEAに行き、一番安い机と椅子を買ってきてパソコンを設置するところから、初日はスタートしました。

本当に良い経験をさせてもらったと思います。当時は人材業界未経験でした。アポ取りし、顧客訪問し、求人票を作り、求人媒体を開拓し、求職者と面談し、顧客に紹介する、という全てを異国の地で自分で行い売上を立てました。現地社員に私の言うことを聞いてもらおうと思ったら、より結果を出すしかありません。ひたすら行動量を高めPDCAを回すことで、既存社員よりも売上を作り、少しずつ私の存在を認めさせ、話を聞いてもらえるようになりました。ほぼ同時に本社から送り込まれたキレッキレの日本人上司からのサポートで何とかサバイバルできたのだと、今でも感謝しています。その後は素晴らしい仲間に恵まれたこともあり、事業自体は毎年伸ばすことができ、最終的には20人近い事業の現場マネージャーを任せてもらい、採用や組織開発から、Salesforce導入などのプロセス改善まで、色々な経験を積ませてもらいました。赴任時には1億円程度だった海外事業が、退職した2021年にはマレーシアやオーストラリアへのM&Aによる事業拡大で、300億円を超える規模に成長する過程をすぐ側で見れたことも、資本主義とグローバル経済を理解する上でとても貴重な経験でした。

ーミャンマーでの事業立ち上げについて教えてください。

何度か失敗と挫折を繰り返しましたが、ウィルグループは約束通り私のミャンマーへの想いを応援してくれて、最終的に現地の求人サイトを開発している会社を買収する形でミャンマーで事業を立ち上げることができました。ミャンマーでの日々は語りだすといくら時間があっても足りません。事業もいくつも挑戦しました。事業として目が出たのは人材紹介と、その後に立ち上げた教育事業です。1年間の全寮制で、日本語と介護を学び、日本に働きに行きたい若者をサポートする事業で、コロナ前には100名程の生徒がいました。

私たちが参入する前はとてもブラックな業界で、それを適正化する「ブラックな業者をキックアウトしてやる」という思いで始めました。時間はかかりましたが、国やプロセスによってバラバラに分断されていたバリューチェーンを統合して、弱い立場にいる途上国の若者から搾取せずに利益を上げるビジネスモデルを作り上げることができました。現地のフィンテック・スタートアップに投資して、学び働きたい若者にファイナンスからサポートできる仕組みで、他社が真似できないモデルを作れた時は「ビジネスって面白いな」と心から思えました。お陰様で社員も50名を超え、デロイトが主催するAwardsの中小企業部門でBest Company to Work に選ばれたり、と事業も組織も順調に成長していました。

Vision 2030として定義していた、2030年までにありたい組織の姿や事業規模が少しずつ見えてきて、そこから逆算してデザイン事業と、Saas代理販売事業も始めました。自社内で革新的なプロダクトを生み出すには、デザインと開発の両輪が必要ですが、それらを社内で育てるための第一歩です。デザイン事業はteamLabのオファーを断ってミャンマーに飛び込んできてくれた若手デザイナーと一緒に立ち上げました。開発機能を一足飛びに社内で持つことは現実的では無かったので、まずは小資本でスタートして知見を得ようと、現地の会計クラウドとHRクラウドの2つのスタートアップと開発・販売パートナー契約を結び、これから面白くなるぞ、と言うところで新型コロナの感染が始まりました。

(写真:支援する現地NPOが建設した学校の開校式と子どもたち)

軍事クーデター勃発、海外ビジネス・スクールへの挑戦

ーその後、軍事クーデターで、帰国せざるを得なくなったのですね?

新型コロナの感染爆発に続く翌2021年2月に、ミャンマー軍によるクーデターが発生しました。当初は平和的に行われていた民主政を求める民衆が武力で鎮圧され始め、私が住んでいた地区でも軍による取り締まりの発砲音が毎晩聴こえるような状況でした。多くの罪もない人々が拘束投獄され、とても事業継続ができるような環境では無くなってしまいました。

帰国を決定づけたのは、私が友人たちと主催した困窮するミャンマーの貧困層への食糧支援クラファンが、軍から民主派への資金提供だと疑われ、今となっては真偽は確かめようは無いのですが「軍が拘束に動いている日本人3人」として一部で噂が広がったことでした。結局、大使館に相談してホテルに避難し、逃げるようにミャンマーを去らざるを得なくなってしまいました。

ー海外MBAに挑まれた経緯や経験を教えてください。

ミャンマーを去る決断をした際、自分の無力さと、この世の理不尽さをこれでもかと感じました。一人のビジネスマン、経営者としての力不足も痛感しました。事業縮小を余儀なくされ、私が誘った仲間たちを解雇せざるを得ない状況に追い込まれました。乗り越える方法もあったはずです。実際に私が尊敬する友人の幾人かは、クーデター後の困難の中でも事業を継続しています。退職して海外留学を選んだのは、多くの仲間を置いてミャンマーを離れることが心苦しく、働く気になれなかったのも本音です。ミャンマーと一生関わり続ける思いはあれど、人生の拠点をどこに置くべきか分からず、ならば学び直しの時間にしようと、世界6都市にキャンパスを持つHult International Business Schoolで、MBA(経営学修士)と、学びを深めたかったファイナンス(金融学修士)の2つを続けて学ぶことができるプログラムに入学しました。

中近東アフリカ地域のビジネスの玄関口であるドバイ・キャンパスからスタートし、シリコンバレーの空気も感じてみたいとサンフランシスコ・キャンパス、最後は本校であるボストン・キャンパスで学びました。ドバイでは、クラスメイトのインド人とアメリカ人を誘って、世界最大のソーシャル・ビジネス・コンテスト(賞金1億3000万円)であるHult Prizeに参加したり、サンフランシスコでは、ペルー人とコロンビア人のクラスメイトと車を借りて、Apple誕生のガレージなどシリコンバレーの名所を巡ったり、ボストンでは、ハーバードの学生たちとシェアハウスをして議論を戦わせたりと、とても刺激的で楽しい毎日を過ごしました。

12年ぶりの本帰国、「地域」に住み、勤め、商う

ーどうして日本に帰国しようと思ったのですか?

留学中の2年間、UAEや米国内を巡る以外に、イギリスやメキシコ、グアテマラやベリーズ、ドミニカ共和国やプエルトリコを旅する中で、大きな変化を自分の中で感じました。10代や20代で感じたワクワクやドキドキ感をあまり感じなくなっていたのです。キリマンジャロに登ったり、カスピ海を手漕ぎボートで横断したり、南極へ添乗したり、冒険心を満たし刺激を求めて海外での暮らしを選んできたように思います。「歳をとった」と言えばその通りかもしれませんが、代わりに少しずつ大きくなってきたのが「日本の地域」を深く旅してみたい、と言う想いでした。大学進学の際も、生まれ育った兵庫県明石から、大阪や京都、東京ではなく大分県別府のAPUを選び、地域を盛り上げる観光フリーペーパーを創刊したり、山間の棚田で合鴨農法を実践する活動に参加したりと、原点の一つに戻ってきたとも言えるかもしれません。若い頃は日本の同調圧力や理不尽とも思える人間関係が苦手でしたが、日本列島が育んできた多様で豊かな自然や文化、歴史が大好きなんです。日本を新鮮な目で再発見しに行こう、と。これまで散々たくさんの方々にお世話になったのだから、次の世代に恩返したい、という想いも後押ししました。

ー「地域の可能性を解放する」インタラクティブに入社したのは?

日本で働くと決めた時、大切にしたい軸を3つ決めました。①地方の街に暮らすこと、②地方の会社に勤めること、③地方の市場を扱うこと。帰国するなら、日本の「地域の課題」に取り組みたいと思いました。でも、これでは「途上国のために働きたい」学生と同じです。「途上国の課題は無数にあるけど、どれ? で、あなたはどんなスキルや専門性を持っていて、どう貢献できるの?」 という問いに答えられなければその資格はありません。私も同様で、地域の経済社会について何も知らない訳です。であれば、ゼロから学ぶしかない。学ぶためには、地域に住み、地域の会社に勤め、地域の市場と向き合うことが必須だろう、と思ったのです。

同時に「楽な方に逃げちゃいけない」とも思いました。東京の会社に所属しながら地方で暮らしたり、地方に暮らしながら海外市場を相手にする選択肢もありました。実際、東京本社所属で地方からリモート勤務OKなオファーや、地方に住みながら海外事業に携われる話もありました。どれも面白そうな仕事で、当然条件面も良い訳で、体がいくつかあるならぜひ挑戦してみたいと思う内容でした。一方で、シンガポールやミャンマーで働いていた頃、たくさんの「進出・経営コンサルタント」という方に出会い、全ての方がそうとは言いませんが、結構な割合で、現地のリアルをあまり知らずに、もしくは一面だけをみた思い込みで「この市場は、この経済は、この社会は、、」と語る様子を見てきました。正直悩みましたし、ブレかけましたが、「地域の課題」を知りたいならこの3つの条件から外れちゃダメだ、と思っていた時に出会ったのがインタラクティブの経営陣でした。

代表の臼井さんとお話して、とても驚いたことを覚えています。「UIターン」という言葉を聞くことも少なかった2009年に縁もゆかりもない沖縄に飛び込んでの起業。デジタルマーケティング事業をメインに事業拡大し、地域の企業を支援してきた実績。さらにエクイティでの資金調達なしに幾つもの事業に取り組み、「東京市場を無視」した事業モデルで、20年以上も一般株式市場への上場企業が生まれていない沖縄からそれを実現することで「地域の可能性」を証明したい、という話にとても惹き込まれました。一方で、まだボストン滞在中であり、長く人材業界にいたので、本心では帰国後は人材から一度離れようと思っていたこともあり「連絡を取り合いましょう」という温度感で終わりました。

一気に思いが定まったのは、東京で臼井さんとCOOの金田さんと食事した際の会話でした。「そう言えば田村さん、来週って空いてます? よければ愛媛の松山にに来ません? 地域のキーマンと食事するのでご一緒しません?」と誘われました。相手は私が大好きで、リリース直後から長年使い続けてきたメディア系プロダクトの元代表の方で、二つ返事で「行きます」と答えました。と同時に、入社するかどうかも分からない人間に「楽しそうだから」と声をかけてくれるお二人のコミュニケーションと価値観が心地よく、このお二人と働きたいな、と思いました。今の私には、手触り感があり解像度が高く「どうしても取り組みたい」と思える何かがありません。それなら尊敬できて、より大きな課題感を持ってチャレンジしている方々の船に乗り込んで、一生懸命漕いでみるか、と心が決まりました。

「日本の地域」は「世界のフロンティア」

ー田村さんのインタラクティブでの仕事内容を教えてください。

私の最初のミッションは、沖縄で生まれ、北海道や福岡で磨かれ、今年は熊本や京都でもローンチされた、地域特化の求人サイト「ジョブアンテナ」の広島市場への展開です。私は明石の生まれで、15分も歩くと瀬戸内海の砂浜と漁港が見える街で生まれ育ちましたので、「多少は両親の近くで」という思いから帰国したら京都か福岡で暮らしたいと思っていました。すると代表の臼井さんから「田村さん、広島は? 瀬戸内・中四国エリアにも我々の想いとサービスを届けたいけど、まだ誰もいません」と言われ、一瞬で覚悟が決まりました。「あぁ、これは呼ばれてるな」と(笑)。私のこれからの人生は、広島と瀬戸内を中心として形作られ、彩られていくんだと、根拠のない想いが湧いてきました。

結局、全ての価値創造の源泉は「ヒト」です。多くの地域の課題も、辿っていけばそのほとんどが少子高齢化とそれに伴う人口減少というマクロ要因に行き着きます。地域の文化伝統が消えつつあるのも、それを支えてきた地域経済が人口減少によって弱体化しているからです。日本の高齢化率は世界トップです。すると生まれる課題も世界がまだ経験していないもので、そこから考え出されるソリューションは世界最先端のものとなるはずで、「地域は世界のフロンティア」でもあると思っています。東京一極集中が叫ばれていますが、江戸時代以前の日本は「地方分権」の時代が何百年も続いていました。地方文化が花咲き、人材が育成され、明治維新後の日本はそれら地方の人材や教育、文化産業基盤を元に発展してきた歴史があります。日本には新しい「地域の時代」のモデルを示すポテンシャルがあると感じています。

今の私に明確な答えはありませんが、その答えを追い求める最初のステップとして、広島・瀬戸内エリアの「地域の採用力を高める」ことが私のより大きなミッションです。地域経済を支えてきた、たくさんの素晴らしい地域の企業様がいます。資金体力があり、採用ノウハウがある大企業や東京の企業をターゲットに開発された求人サービスではなく、「ボーンローカル」で地域の企業の採用をいかにエンパワーするか、という視点でデザインされた「ジョブアンテナ」は、本当にユニークな存在だと思っています。今も東京への人口流入は続いていますが、その流れをほんの少し逆流させて、さらに地域での人材の流動性を高めることで、企業の採用競争力を磨き、地域の採用力を高める、そんなお手伝いができたら嬉しいですね。

ー入社して1ヶ月たちましたが、未来の仲間に一言ください。

良い決断ができたな、と感じています。入社後、沖縄本社と最初に立ち上がった拠点の福岡で、プロダクトや事業モデルとオペレーションを学ぶ日々ですが、入社時よりもワクワク感が高まっています。想いがあり、私とは強みがまるで違う猛者がたくさんいて、学びの対象としても、共に戦う仲間としても、とても頼もしく感じています。2年前、MBA留学した当初は、アフリカかアジアのテク企業で働くとばかり思っていたので、「日本の地域」というその真逆に飛び込んだ「人生の面白さ」を感じています。日本の地域は経済的には世界の辺境となりつつも、豊かな文化伝統の継承者であり、少子高齢化という課題と取り組みの世界最先端でもあると思います。ぜひ、「地域の可能性を解放する」というインタラクティブのパーパスに少しでも興味をお持ち頂けるのであれば、ポチッと「話を聞いてみたい」ボタンを押して頂ければ幸いです。ぜひお話いたしましょう!

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