最適化された隙がない世界
2126年。
世界は過剰に「最適化」されていた。
AIの爆発的な成長、発展によって、労働のほとんどは過去のものになった。
網膜デバイスを開けば、アルゴリズムが「今、自分が一番喜ぶコンテンツ」や「次に食べるべきもの」を違わず提示してくれ、車は空に飛び、不便さえも過去のものになっていた。
タイパとコスパが追求され、失敗や遠回りは社会から徹底的に排除されていった。
正解の選択肢だけが並ぶ世界。
けれど、街を行き交う人々はどこかうつろで、自分が何者なのかもわからないまま、まるで自分の誰かの人生を歩まされているかのような顔をしている。
自分の行動が誰かに届くことも、ぶつかることもない。
何をやっても手応えがなく、自分が存在している意味すら感じられない日々。
そんな時代に導入された制度が、「選択的終結制度(通称:選択死)」である。
苦痛なく、自分の意志で人生を終えられる合理的なシステム。
相次ぐ災害、インフラの崩壊、都市への一極集中や人口バランスの崩壊も重なった。
パンク寸前となった社会保障費に耐えかねた世界は、やがて徹底的な人口調整へと舵を切った。効率と合理性を突き詰めた、最適化されたシステムだった。
効率と合理性の先に見るもの
そして、これすらもマーケティングの波に呑み込まれていった。
『あなたらしい、理想のフィナーレを』
音楽アプリは『最期に聴きたいプレイリスト』をレコメンドし、SNSには「#MyLastChoice」のハッシュタグと共に、美しく景色と共に消えていくインフルエンサーのクソみたいなタイアップ動画が溢れていた。
効率よく生き、無駄なくスマートに人生を畳むこと。それがこの時代の「正解」とされていったのである。
34歳の僕もまた、暗い部屋で画面の光を無感情にスワイプしていた。
定職もなく、誰からも必要とされず、どこにも自分の居場所がない。
自分という存在が社会のどこにも影響を与えていない無力感の中で、僕は決意する。
「クソみたいな世界は、今年いっぱいだけ生きて、終わりにしよう」
今日が1月2日。
12月31日という期限を決めた瞬間、なぜかスワイプする指が止まった。僕は古いノートを開き、誰かの作ったプレイリストではなく、自分自身の手でやり残したことのリストを書き始めた。
残り364日
死という期限を決めたことで、僕の日常には少しずつ熱が混ざり始めていた。
春には、数年間連絡をしていなかった高校時代の友人と居酒屋で再会した。
会ってないない時間は感じることもなく、お互いの近況報告もしながらあっという間に時は流れた。
「これで会うのが最後かもな」と思うと、自然と言葉に熱が入る。
熱が入った会話は、どこか恥ずかしくて、どこか心地いい。
当時の高校生活を思い出しながら、いつから熱を失ったんだろうと、急に悲しくなった。
久々に自分をさらけ出すこの感覚は、「ここに自分がいていいんだ」という安心感そのものだった。
「またのちほど」と冗談混じりの会話で解散したものの、次の予定はもちろん立てなかった。
夏には、親の元を訪ねた。
自分が制度を使うことを検討をしていることは、まだ伝えていなかった。
伝えたら、どう思うだろうか。
まあ、それはそれは反対されるだろう。
そんなことを想像した時、親に迷惑だけはかけたくない、そんな強い思いがあることに気づいた。
これまで散々迷惑をかけた挙句に、勝手に選ぶ。
そんな自分勝手があっていいものか?と自分が情けなく、憤りを覚えた。
感情的になることが久々だった。
「いなくなることで迷惑がかかる人」そんな人がいることにハッとした。
秋、僕はパソコンに向かい、批判も恐れずに自らの葛藤や感情をそのまま物語として書き綴り、ネットの片隅に投稿した。
『僕は、繋がることから逃げていただけかもしれない』
インターネット・SNS・AIによって、繋がりが可視化され、ひろがり、一見繋がりが人々を豊かにしたような世界で、その言葉は爆発的に広がった。
『誰かをもう一度、頼ってみようと思います』
自分が放った言葉が画面の向こうの誰かの心を動かし、明日を生きる力になっている。
かすかながらもその感覚、手応えをを感じたとき、僕の中での選択死は消え去っていた。
居場所を取り戻した世界
12月31日の深夜。僕の手元には選択死の申請書があった。ペンを握ったまま、僕は二つに破き、ゴミ箱へ捨てた。
この1年で、高尚な生きる理由なんて何ひとつ見つからなかった。
けれど、僕にはも笑い合える場所があり、僕を待ってくれる人がいる。
自分を必要としてくれる居場所がある。
それがあると気がついてしまった僕はもう死ねなかった。
そんな当たり前のことに気づいた人間は、もちろん僕だけではなかった。
想定外だったのは、世界中で相当な数の変化が起こっていたということだった。
「いつでも死ねる」という制度と、それを煽る過剰なマーケティングは、皮肉にも人々に「なぜ自分は今日を生きるのか?」という根源的な問いを強制的に突きつけてた。
マーケティングされた死に違和感を抱いた人々は、自身の殻を破り大切な人と向き合い始め、今まで見落としていた繋がりに気づいていった。
そして、自らの手で大切な人との繋がりを再構築し始めたのだ。結果として、制度を利用する人は想定を遥かに下回った。
正解を選ぶことばかりに夢中になり、自分の身体的な感覚を見失っていた人々が、他者の温度に触れ、自らの手で誰かとの関係を紡ぎ始めた。
ただ与えられたコンテンツを消費するのではなく、自分の言葉や行動で誰かを喜ばせ、共に生きる居場所を築き直したとき、人々は、はじめて自分だけのアイデンティティと生の感覚を取り戻していった。
そして、この「生への自覚」が、社会に思いもよらない変化を起こす。
自らの意志で今日を生きることを選び直した人々は、受動的な存在から脱却し、「もっと誰かを喜ばせたい」「僕たちの手で、この街に新しい居場所を作りたい」という爆発的なエネルギーを抱いて街へ繰り出した。
人類はAIという圧倒的なテクノロジーをただの暇つぶしではなく、自らの熱や繋がりを形にするためのツールとして使いこない始めた。
活力を取り戻した人類の爆発的な創造性とAIの圧倒的な生産能力が噛み合わさったことで、沈み切っていた世界経済は徐々に回復を遂げた。
命を消費のネタにするようなマーケティングは衰退し、自らの選択に責任を持つ市民が増えたことで政治も息を吹き返した。
ただ最適化されるのではなく、すでにある事実に気づき、自らの手で誰かとの居場所を作り続ける人類。
世界はかつてないエネルギーと、鮮やかな創造性に溢れる時代へと足を踏み出していた。
(続く)
【あとがき】
こんにちは。GEKIの副島です。 社員noteリレー企画として、(超絶勝手に想像した)100年後の未来のSFを書いてみました。
(地球が存続した上でこのnoteのログが消えずに)100年後の誰かに届いていればそれほどエキサイティングなことはないです。100年後のどなたか読んでいましたらコメントください!
個人的には、今のAIの発展にはやや悲観的です。。。
AIがなくてはならない技術になりつつある現代ですが、我々人類はAIに使われることなく、人がより生命的で創造的な生き方をアシストするツールとして、人が豊かになれるような方法を模索していきたいと思っています。
そんな思いもあり、今回は実際にAIとあれこれ対話しつつ、最後は自分の言葉で書いてみました(人生初なのでお手柔らかに・・・)。
今回主題にしたのは、GEKIが掲げている「誰かの生きる理由をつくる」というミッションです。
「生きる理由」と聞くと、何か大きな夢や、立派な志、社会的な役割のような高尚なものを想像するかもしれません。けれど、人が生きるのは、ほとんど理由なんてなく「ただ死ねないから」なのではないか。というのが最初の着想にありました(悠成さんあざす!)。
そこから深く考えていく中で、浮かんできた仮説が2つあります。
(仮説1)
人が「死ねない」理由は、放棄できない居場所があるから
「自分を必要としてくれる誰かがいる」「ここにいていいんだと思える居場所がある」と感じられたとき、人は死ねなくなるのだと思います。また、資本主義の中で生活にかかるコストを金さえあれば無限に調達できる現代では、誰かと生きていることのリアリティが薄れ、一人でプレイしているゲームのように錯覚してしまう。そうすると、いつでも勝手に人生からログアウトできてしまうリスクが高まるのではないか、と感じています。
(仮説2)
人が「生のリアリティ」を得られるのは「自己効力」を感じた時
人が生きている実感を得られるのは、「自分の行動が誰かの希望になる」という関係性の中に生まれる、小さな自己効力感を得られたときだと思っています。便利すぎる社会や最適化された情報の中で、タイパやコスパを追い求め、効率よく生きようとするあまり、私たちは正解の選択肢を選ぶことばかりに夢中になって、自分が何者かわからなくなったり、傷つくことや遠回りすることを恐れ、生きている手応えを見失ってはいないでしょうか。
生きる理由なんて、大層な理由は必要ありません。
「自分の言葉で誰かが笑ってくれたから」
「自分を待ってくれている人がいる場所へ帰るため」
「大切なあの人と、もう一度話したいから」
小さくても確かな生きる理由に自覚的になったときに、私たちは爆発的な力を発揮するのではないか。戦後が結果としてそうだったように(もちろんそれだけの理由にあらずですが)、人類は底力を発揮するのではないか。そんな可能性を信じたいと思っています。
自分の関わりによって生まれた手応えと、放棄できない居場所。そんな一人ひとりの生きている手応えに寄り添い、守り、向き合っていくこと。それこそが、私たちが事業を通じて作っていきたい「生きる理由」であり、これからの時代に求められる仕事になると思っています(とはいえまだまだわからないので実践と探求をし続けるしかないですね。。)
よい暮らし方、よい働き方はあくまでよく生きるるための方法論だと思います。方法の正解、セオリーは時代共にどんどん変化していくと思います。だからこそ、こんな時代の中だからこそ、どう生きるか?を問い続けることが、今後私達にとっての最重要命題だと私は思います。
問いの実践の先に、100年後の今日に意味のある生き方、必要な仕事、人間の役割を残せていけると信じ、引き続き探求をしていきます。
興味ある方、ぜひ話しましょう!