「ちゃんと」と支援の本質のあいだで、僕が最近考えていること
最近、障害福祉サービス事業所、とりわけ就労継続支援系の不正受給報道を目にすることが増えた。
もちろん、不正はよくない。
これは大前提。
制度がある以上、ルールは守らなきゃいけないし、コンプライアンスも大事だ。
でも、なんだろう。
最近、少しだけ気になっていることがある。
みんな、ヘンにちゃんとしようとしていないだろうか。
いや、「ちゃんとする」のは悪いことじゃない。
むしろ必要だ。
でも、ときどき、
「ちゃんと」が目的になってしまう瞬間
がある気がしている。
怒られないように。
指摘されないように。
監査で困らないように。
そうしているうちに、いつの間にか、
コンプライアンス > 支援の本質
みたいな空気になっていないだろうか。
もちろん、誤解されたくないので言うと、僕はコンプライアンス軽視論を言いたいわけじゃない。
むしろ逆で、とても大事だと思っている。
でも、それは本当に「目的」なんだろうか。
僕は昔から、
「手段の目的化」
が少し怖い。
これは福祉だけじゃなくて、人生でも。
たとえば、記録。
書かなきゃいけない。
個別支援計画もそう。
当然、大事。
でも、それは何のためなんだろう。
本人のことを理解するため。
より良い支援を考えるため。
支援者同士が方向を揃えるため。
つまり、
人を見るためのもの
だったはずだ。
でも、時々、
「書くこと」が目的になる
瞬間がある。
これ、福祉だけじゃない気もする。
仕事でも、家庭でも、学校でも。
人って、目的を忘れて、手段に安心してしまうことがある。
決まったことをやっていれば安心だから。
白黒がつくから。
怒られにくいから。
でも、その瞬間に、少しだけ人が見えなくなる。
僕はそこが、少し怖い。
性善説か、性悪説か。
制度の話になると、そんな言葉も出てくる。
「ちゃんと管理しないから不正が起きる」
「いや、人を信用しない制度はおかしい」
みたいな話。
でも、なんだか、その二元論だけでは語れない気がしている。
いや、そもそもさ。
人って、そんなに単純じゃない。
弱いし、迷うし、ズルもする。
でも、環境が変わると、不思議なくらい変わることもある。
相談支援専門員をしていると、なおさらそう思う。
「この人はこういう人」
と決めた瞬間に、見えなくなるものがある。
支援って、案外、
“決めつけないこと”
なのかもしれない。
だから僕は、
「かもしれない」
を大事にしたい。
この人は、こういう人かもしれない。
でも、違うかもしれない。
この支援が合っているかもしれない。
でも、もっと別の方法があるかもしれない。
これは優柔不断というより、
ちゃんと疑う
ということだと思っている。
ただし、人を疑うためじゃない。
自分たちを疑うため。
この支援は、本当に本人のためだろうか。
このルールは、何のためにあるんだろう。
僕たちは、いつの間にか「ちゃんと」を目的にしていないだろうか。
そういえば、昔の人も、似たようなことを考えていたのかもしれない。
老子の言葉に、
「法令滋彰、盗賊多有」
というものがある。
法令が増えれば増えるほど、盗賊も増える。
もちろん、
「じゃあルールはいらない」
なんて話じゃない。
でも、
管理を強くするだけでは、本質的な解決にはならない
という視点は、今の障害福祉にも少し通じる気がしている。
不正が起きる。
監査が厳しくなる。
書類が増える。
現場が疲れる。
それも必要なことなのかもしれない。
でも、その過程で、
支援の本質まで痩せてしまったら、少し悲しい。
僕は、障害福祉サービス事業所って、閉じられた場所ではないと思っている。
事業所だけで人生は完結しない。
地域につながっている。
家族につながっている。
仕事につながっている。
孤独や、希望や、お金や、未来にもつながっている。
だから、事業所は、
「ちゃんと」だけで閉じない方がいい。
制度を守りながら。
でも、制度に閉じない。
正しさを持ちながら。
でも、正しさに閉じない。
そんな在り方が、きっとある。
完璧じゃなくていい。
迷ってもいい。
ちゃんと揺らぎながら。
「かもしれない」を持ちながら。
そういう事業者が少しずつ増えていったら。
障害福祉は、もう少しやさしくて、もう少し希望のある場所になっていく。
僕は、わりと本気で、そう思っている。
※次回は、「閉じない事業者論②」として、事業所はなぜ“閉じてしまう”のか、そして地域に開かれるとはどういうことか、もう少し考えてみたい。