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母との別れ

母が亡くなりました

今年の2月3日、母が亡くなりました。

73歳でした。

先週四十九日の法要を終え、少し気持ちの整理もついたので、母との別れを振り返ろうと思います。

写真は四十九日法要の当日に撮った母の遺影と、母が好きだった窓からの景色です。


どんな人だったのか

私の母は一言で言うと、すごく魅力的ですごく変わった人でした。

主婦をしながら学習塾を経営し、40代になってから大学の修士課程を修め、父の経営する会社を専務取締役としてサポートし、60代になってからイギリスへの留学をもくろむような、そんなすごい人でした。

父の事業を継いでミラクアを創業した私のことも、当然母は大いにサポートしてくれました。

実行力、推進力、財力どれもそろったキャリアウーマンでした。

またその反面すごい人あるあるなのか、感情が豊かで、空気が読めなくて、他者の考え方を受け入れない、人に任せるのが苦手、みたいなところもありました。

「あんな素敵なお母さんでうらやましいわ!」「お母さんを超えるような女性はきっと現われないと思うわよ!」などと言われるたびに「他人からみたらそうだろうけど、実際息子やると大変だよ…」とうんざりすることの方が多い若かりし頃でした。


ミラクア創業から今日まで

そんな母の助けを得ながらミラクアを創業し、何度も何度もぶつかりながら、少しずつ会社は成長してゆきます。

私もキャリアを積み、結婚し、子を授かり少しずつ社長らしくなってゆきます。

2~3年前から黒字化し、業績が安定し始め、気がつけば母の存在が疎ましくなくなっていました。

とても仲良く経営について相談し、お互いを認め合えるような空気が満ち溢れていました。

きっと母も私のやり方を尊重し、言いたいことをぐっとこらえてくれていたのではないかと思います。

私は素直に母の功績に感謝しつつ、さらに経営にコミットしてゆきます。

何度も言いますが、この2~3年はとても良い関係の母と息子、そしてビジネスパートナーでした。


父からの緊急連絡

昨年の11月、母が倒れ集中治療室に入ったと父から電話が入ります。

もともと抗がん剤治療を受け続けていたのですが、肺炎を併発してしまったとのことでした。

妻と子と共に新幹線に飛び乗り、大阪の病院に向かいます。

新幹線の中で涙が止まりませんでした。

今まで大嫌いだった母と、苦労して苦労してようやく良い関係になれたのに。

当時4か月だった息子もまだ会わせられていないのに。

もっと早く母と仲良くなれば良かったと。


母との最期

良くなったり悪くなったりを繰り返しましたが、ついに年末には主治医からもう長くないと告げられます。

母が生前大好きだった、そしてその地で最期を迎えたいと望んでいた栃木県那須になんとかして連れて行ってあげたいと、父と協力して母を搬送することになりました。

私が付き添いとして救急車に乗り、丸一日かけて母と那須へ移動します。

その後、父、私、妻、子の4人に見守られながら、約2週間穏やかな日々を過ごし、母は静かにこの世を去りました。

2月3日のことでした。

7週間後四十九日の法要を終え、戒名「春雪妙佳真如」の名の通り春の雪の景色を置き土産に、母は修行の旅路に就きました。

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