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【代表インタビュー】「自分は何ができるか」よりも「地域が求めているものは何?」

話を聞いた人 株式会社JPD 代表取締役 菅 聡(かんあきら)

高校卒業後、地元を離れて仙台の学校⇒関東の会社へ就職

地元の高校を卒業して仙台の学校でコンピューターを学んだ後、システムエンジニア(SE)として関東の企業で働きました。今の常識とは違い当時のプログラマーなんて残業が前提のようなもので、手当こそ大きかったものの、休み方を忘れてしまうほど職場に缶詰というのが日常でした。そんな期間も長く続けば精神もすり減ってくるもので、いつしか「金よりも時間が欲しい」という考えに傾いていきました。

実家や両親のこともあるし、いつかは戻らなきゃと考えていたので、地元企業への就職の段取りなどはすっ飛ばして帰郷。「まぁなんとかなるだろう」というような軽い気持ちで戻ってきたのを覚えています。

地元企業へ就職。ほどなくして芽生えた独立・起業の意識

故郷に戻り、地元の会社に勤めました。根っからの現場派というか作業が好きな性分なので働くこと自体はすごく楽しかったですし、やりがいも持っていましたね。

ただ一方で、前の会社の同僚たちはどんどんキャリアを重ねていく訳ですよ。「ゲーム会社に引き抜きされた」とか「面白い仕事に出会った」とか、着実に高みへと登っていく姿に嫉妬というか、純粋に羨ましく思えたんだと思います。金よりも時間が欲しいと思っていたはずなのに、肝心の時間の使い方が分からなくなっていた。誘惑の少ない田舎環境というのもあるとは思うんですが、同じ時間を使うなら満足の行く生き方をしたい。「自分も一丁何かやってやるか!」という強いエネルギーに後押しされて一念発起、独立起業を決めました。

「何をしよう」ではなく「何が求められているのか」で考えた

最初の会社ではSE、地元では設備工事。「じゃあ何ができるだろう?」と考えるのが普通かもしれないですが、そんなのは未来の選択肢を狭めるだけ。なので過去のキャリアはあえて無視しました。そもそも需要がある仕事ってなんだろう?」と考えながらぼんやりとカレンダーを眺めていた時にアイディアが閃いたんです。1月は正月、2月は成人式、3月は卒業式…という風に、1年には流れがある。その流れにあるというか、日常の中に延々と続くものを仕事にすれば食っていけるのではないかと。そう考えた時に思いついたのが「遺影写真の制作」でした。不謹慎かもしれないですが、確実にニーズがあるのは事実です。一定の品質を担保しつつ、利用しやすい価格設定なら葬儀会社と提携できる。このアイディアは正に的を得たというか、今のJPDの始祖となる事業となっていきました。


遺影写真の製作から冠婚葬祭〜映像会社へと進化した黎明期

遺影写真の受注が順調に伸びてきていた頃、「遺影写真の色褪せが激しい」という一本のクレームが入りました。当時のプリンターの性能(インクの質)はまだ低く、風化しやすかったんです。そこで納めたお客様に対して再プリントなどのフォローを行ったんですが、その姿勢が素晴らしいと業者様から厚い信頼を受けることに繋がって、様々なお声がけをいただくようになったんです。「葬式だけじゃなくて結婚式も手掛けたら?」というアドバイスもあり、スチール(写真)・映像編集の仕事もさせていただくようになりました。その頃になると仲間も増えていきましたし、多くの現場を抱えることが可能になっていました。

映像を手掛けると今度は学校や幼稚園(保育園)などから映像記録も相談されるようになり、映像の編集だけではなく撮影も手掛けるように。『JPD=映像=冠婚葬祭&学校・幼稚園(保育園)の記録』という業務構図はこの頃に固まったように思います。


コロナが会社と業務(仕事)を根本から変えた

仕事が増え、クライアントも地元に限った話ではなくなり、福島や山形にも営業所を持つことができました。現場が増えれば当然スタッフも増やしていかなければなりませんが、人が増えると人脈も増えますし、仕事のチャンスも自ずと増えていきます。

その中でもトピックだったのは、新庄市にフィルムコミッション(映画やテレビドラマ、CMなどのロケーションを誘致し、撮影がスムーズに進行するようサポートする団体)を設立するというプロジェクトにお誘いいただけたことでしょうか。映画やCM撮影のロケハンやお手伝いなどにも関わらせていただき、JPDの知名度が一気に高まった出来事です。


世の中がデジタル中心になったことで、映像編集もデジタル一本へとシフト。映像編集も多岐にわたるようになり、企業や自治体から依頼される記録映像の撮影編集、婚礼関係の撮影編集など、地元で求められる映像関連の業務の大半に対応できるようになりました。また、ご縁があって大手コンテンツ企業からYouTubeや料理動画などの映像編集業務を依頼されるようになり、会社全体の動画の納品数は一ヶ月で千本弱になるなど多忙を極めていました。


しかし今から3年前、コロナの感染拡大が起こります。


それによってイベントや冠婚葬祭など、これまで当たり前のように存在していた撮影業務がピタリと止まり、主力だった婚礼の撮影が0件になってしまうなど、弊社にとっても未曾有の危機が訪れます。それでも幸いだったのは、リモート生活(いわゆる在宅)が増えたことで、ハウツー動画や配信型の映像コンテンツ需要が増し、動画編集の下請け業務が増えました。また、世の中がDXへと向かい始めたことでIT部門の業務が増えたことも経営面では功を奏しました。

一言で「映像業務」と言っても用途やその内容は多岐にわたりますが、とりわけ婚礼という大きな柱の先行きが不透明になってしまったことで、こちらも経営環境・意識の全てを変える必要に迫られることになりました。結果としてJPDの地域における役割というか、果たすべき使命のようなものが、この頃になるとぼんやりと見えてくるようになります。


これからのJPDが進んでいく道とは

遺影写真の制作から始まり、撮影や編集という映像に強い企業として進化してきたJPDですが、コロナ以前から紆余曲折はありましたし、様々なスキルを持ったスタッフに恵まれたお陰で、映像以外にもWeb、DTPデザインなど世間で「メディア」と呼ばれる類の業務の大半は、弊社のワンストップサービスで提供できるようになり、クライアント様の様々なニーズに対応できるようになっています。

コロナが変えたものは単純に売上構成比みたいなもので、一つの柱に依存した経営環境から、弊社の経営リソースをまんべんなく提供できる会社へとシフトしたというような感じです。また、下請けにとどまらず自ら企画し提案し、サービスや商品として昇華させる動き方ができるようになったのも大きな変化なのではないかと思います。

「JPDが動けば何かが変わる」「新しいことをやってくれる」というような期待感と言いますか、『JPDに相談すればなんとかしてくれるだろう』という、地域から求められる企業になったことは素直に嬉しく思いますし、苦しいながらも常にチャンスに巡り会えていることは経営者としてはとても心強い。しかし一方ではコロナによって撤退・廃業せざるを得なくなった企業も多く、ここ新庄に限らずローカル地域では「地元パワー」の低下が顕著になっていることは残念でなりません。

「地域に元気を!」とはよく聞く言葉ではありますが、その実は非常に難解なテーマです。

地域が元気になるためには、そこに住む人たちがイキイキとしていることが必要で、そのイキイキとは若者が元気に地元の街を闊歩し、働いている姿ではないか。「中央に出ていかなくてもやりたい仕事が見つかる地域」にしていくためには、一社でも多くの企業が元気になること、職業の選択肢が増えることが前提になければなりません。

そのためには企業どうしが協力し、リソースを互いに利用し合って外へと発信していくことや、他企業との競争力を高めていくことが今後の企業活動では必要になっていくでしょうし、僕らの会社もその中の一つでありたいと思います。
若く未来ある若者に就業とキャリアアップの機会を与えたいですし、地域の情報文化をリードしていける企業であり続けるために、これからも日々研鑽して突き進んでいきたいと思っています。

「地域に求められているとをやる!」
地域のお困りごとをさまざま手法、アイディアで解決していく、ローカルなビジネスに繋げてみたいと考えている方、ぜひ一度お話しましょう!弊社オフィスにも遊びに来てください!


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