思考は才能ではない。それは技術だ。誰でもできるものだ。
賢い人は、知識が多いのではない。
“翻訳”が速い。そして、翻訳のための「箱」を持っている。
思考家は、常に抽象的なボックスを持って、そこにITの話も人事の話も家族の問題も何でも一回ぶち込んでから戻す。
出来事を、そのまま受け取らない。
いったん“構造の言葉”に変換する。
そして戻して、判断する。
この往復ができる人が、強い。
知らない言葉が出てきてもいい。
略語が分からなくてもいい。
でも、怖がらなくていい。
分からない言葉を、分からないまま放置しない。
でも、完璧に理解しようとして止まらない。
構造だけ掴む。
正確さより、意味。
意味より、判断。
構造化とは、箇条書きが上手いことじゃない。
テンプレが綺麗なことでもない。
構造化は、世界を扱うための本棚だ。
棚があると、出来事が置ける。
置けると、比べられる。
比べられると、選べる。
「構造と包括性が大事。構造化ができなきゃ包括も見えないし、包括しても構造ができなければ解像度が上げられない。」
つまり、どっちも必要。
世界を“全体”として見たい。
でも“細部”も見たい。
この両輪が、構造と包括性だ。
そして、僕がいちばん強く言っていたのはここだ。
区分しすぎるほど、全体が見えなくなる。
「区分をしてはならない。」
「スプレットシートを分けるやつは信用するな。」
言い方は強い。でも、意図は明白。
分けた瞬間に、世界がバラバラになるから。
バラバラになると、つながりが見えなくなるから。
つながりが見えないと、判断が遅くなるから。
区分とは、真理じゃない。
区分は、道具だ。
用途に合わせて切るものだ。
豆腐で例えてみよう。
冷奴なら大きく切る。
味噌汁なら小さく切る。
鍋ならまた違う。
切り方は、目的で変える。
固定した区分に縛られると、思考が死ぬ。
目的で切れる人は、生きる。
教養の話も、同じ線上にある。
「何層に分けて一つの物事を説明できるかっていうことに、教養が出る。」
あなたは、一枚の絵を見た時に、何層で見てるか?
一枚の絵画を「直感的な美しさ」「美術史的位置づけ」「技法」「社会背景」など複数のレイヤーで鑑賞しているか?
これも“翻訳”だ。
目の前の出来事を、別の切り口に翻訳する。
層を増やす。
それが、世界の深みになる。
そして人生の豊かさになる。
思考を整理するために、考えたことを全て書き留める習慣をもとう。
僕は、プライベートと仕事を分けず、人生のすべてを一つのツールに一元管理する。
起動が速いGoogle Keepがタスクの即時記録に、Evernoteが時系列での思考記録に適している。
最後に。
今日からできることを、やさしく3つだけ置いておく。
1つ目。
話を聞き終わったら、自分にこう聞く。
「これは構造的に何の話?」
2つ目。
分からない言葉が出たら、すぐ理解しようとしない。
先に箱に入れる。
「これは“つなぐ話”なのか、“決める話”なのか、“コストの話”なのか。」
3つ目。
メモや思考を、最初から分けすぎない。
世界は一つだから。
必要なら、目的で切る。
豆腐みたいに。
世界は最初から分かれていない。
分けているのは、こちらの頭だ。
切り方を変えた瞬間、
同じ出来事が、別の意味を持ち始める。
その瞬間に、人は少し楽になる。
そして、少し優しくなれる。
思考と構造化は、強くなるためだけの技術じゃない。
自分を守るための、やさしい技術だ。