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僕が、サイバーエージェントを辞め、brossomという選択をした理由

はじめに

ご挨拶

はじめまして。brossomの石川です!

brossomではCOOという名ばかりの肩書のもと、プロダクト中心に事業に関わる戦略設計〜実行までを幅広くやらせてもらっています!

今回は、「なぜ僕がサイバーエージェントを辞め、brossomを作るという選択をしたか」について書きたいと思います。

この記事を書く理由

率直に言うと、僕らは今絶賛仲間を募集中です。一緒に志をともにしてくれる人を、今か今かと待ちわびております。そして、僕はこの会社が、入ってくれた仲間に後悔させないくらいいい会社だと思える自信があります。

ただ、どんなに自信があっても、知ってもらわなければ始まらない...

ということで、この記事は、なにかしらでbrossomという会社を知ってくれた人に、中にいる人間がどんなやつで、どんな想いで働いているかを知ってもらうことで、少しでも会社や僕自身に興味を持ってもらうことを目的として書いています。

少々長くなってしまったのですが、お付き合いいただけると嬉しいです!

学生時代のお話

キャリアの経緯について書く上で、まずは僕自身の背景をお話しします。

ど田舎にて順調な幼少期

僕は長野県の軽井沢町という少しおしゃれな街で生まれ、4歳のときに群馬県の松井田町という、少し...いや、だいぶ田舎で育ちました。(知ってる方いたらお友達になりましょう!笑)

両親は普通のサラリーマンとパート社員の夫婦でしたが、祖父はふたりとも自営業で、今思えば、幼いながら父と祖父を比べ、知らず識らずのうちに自分で事業をするという生き方に憧れていたのかもしれません。

小中はサッカーもがんばりつつ、成績も勉強しない割にはそこそこ優秀ですんなり進学高校に入学、生徒会長やらキャプテンも任せてもらい、いわゆる「容量のいい優等生タイプ」でした。

大学受験で初めての挫折

さすがに、高校の勉強は容量だけでクリア出来るほど甘くはなく、かといって頑張り抜く甲斐性も持ち合わせていなかった僕は、「大学受験失敗」という、人生で初めての挫折を味わいます。

失敗という結果を受け入れられず、努力もしないくせにプライドだけはいっちょ前だった僕は滑り止めには入学せず、浪人を選択しますが、怠け者の本質は変えられずに結局第一志望の国立大学は落ち、私立の大学に進学します。

この頃から、「容量はよくても、結局大事なところでがんばり抜けない自分」に、深いコンプレックスを、そして同時に「こんな自分でも人生かけて頑張り抜きたいと思えるものはなんだろう」というモヤモヤした疑問を抱くようになりました。

大学1年生の焦り

大学は都内の私大に進学したんですが、まわりには受験もしないで高校からエスカレーターで上ってきた、生温く、チャラけた奴らばかり。

一緒に遊んでみたりしても、自分の中に浮かぶのは「これが、人より一年遅れてまで入った大学という場所での過ごし方なのか?」「こいつらと一緒に遊んでたら、何も成し遂げられないまま4年間が終わってしまうのではないか?

周りのせいにしようとしている時点でズレた考え方ですが、一年ビハインドがあることも相まって、どうにも自分の中で危機感が大きくなっていきます。

自己啓発本を読みまくった末

当初何かしらで自分を変えたくて、でもその方法がわからない僕は、当初流行っていた「〜が〜する◯つの方法」的な本を読み漁りました。いわゆる自己啓発本ってやつですね。

そして、結果以下の3つの答えにたどり着きます。
・言っていることは全部同じで、要は人生は自分の考え方次第だ、やりたいことをやれ。
・こんな本を読んでいても、行動しなければ何も変わらない
・自分にとってベストな人生は、好きな人と好きなことをして、生きるのに困らない額のお金を稼ぐことで、それに一番近いのは自分で事業を興すことなんじゃないか?ということ

はい、わかってます。多分病んでましたよねw

ですがこの時間に自分の価値観と、そして自分の人生から逃げないで、向き合ったことは今でも僕の礎になっています。

2つのベンチャー企業との出逢い

本を読むのを辞めた僕は、いつか起業するならそういう人たちの近くで働くのが、学ぶには一番早いだろうと考え、ほぼ3年間の学生生活をベンチャー企業で2社のインターンに費やします。

1社目は、株式会社ビジネスバンクグループという会社で、「日本の開業率を10%に引き上げる」というミッションのもと起業家支援をしている会社で、インターン採用の営業と学生対象のイベントの運営をさせてもらいました。

社員もほぼ全員が起業家志望という環境で、仕事を通してもいろんな中小企業の社長さんや、同じ想いを持った学生の友人にたくさん出会え、当時学生だった僕にはとても刺激的な毎日でした。

ただ、同時に自分が打ち込めることも探していた僕は、バナー等の制作経験を通してとても興味を持った、デザインという行為をもっと経験したく、次の株式会社CRAZY(当時はUNITED STYLE)という環境に移ります。

フルオーダーメイドの結婚式を行うめちゃくちゃ素敵な会社で、ほぼ素人にもかかわらずwebデザインをさせてもらいました。

ウェディング業界を変えるという信念のもと、全員がイキイキ・キラキラ・メラメラ働いていて、その熱に圧倒されながらも負けじと食らいついて働いていたことを覚えています。

ベンチャー企業での経験が与えてくれたこと

この2社での経験は、数え切れないくらいのことを僕に与えてくれましたが、一番は「自分は受験勉強さえやり抜けなかった怠け者かもしれないが、心からやりたいと思ったことに関しては、多少不可能そうなことでも、全力で頑張り、どうにか出来る人間っぽい」という自信

そして、デザインを始めとした経験を通した、「人に何かを創り、届け、喜んでもらうということが、自分が一番熱を燃やせる行為なのではないか」という気づきでした。

サイバーエージェントに就職

学生時代の経験から、何かを創ること自分で事業を創ることという2つに一番近そうで、当時伸びていたITという業界に会社を考えた結果、サイバーエージェントに就職することになります。

地獄のソシャゲ時代

サイバーエージェント時代は、当時流行っていた美少女ゲームのデータサイエンティストから始まりました。数字が苦手で、ゲームよりも人の役に立つサービスに関わらせてほしい、と人事に希望を出した僕にとってはまさに地獄のような日々でした。

ですが、できなかったことが出来るようになっていくなんとも言えないワクワク感と、持ち前のプライドの高さで、辞めるという選択は一切考えずとにかくめちゃくちゃ頑張って働きました。笑

そのおかげか、少しずつ成果が認められて、ゲームプランナーとしてガチャやイベント、キャラのパラメータ設計、開発ディレクターとして、幅広く働かせてもらうようになりました。

みんなで創る、という感覚との出会い

開発ディレクターとして、少しずつモノやサービスを創るという行為に近づけていたものの、当時の売上!売上!なトップダウン開発組織に少し違和感を抱いていたため、人事に相談し、アバターサービスの部署に移動します。

そこで、当時はそこまで有名ではなかったHCD(人間中心設計)やUXD、デザイン思考、といったアプローチを社内に布教している一人の専門家の先輩と出会います。

トップダウンでウォーターフォール的、多少のメンバー違和感は売上で事後説得、という開発しか経験してこなかった自分が、観察や検証による生々しい開発プロセスと、メンバー全員が頭を使って正しそうなアウトプットに向き合う建設的なスタイルに魅力を感じるのに時間はかかりませんでした。(もちろんどっちが良い、悪いということではなく)

そこからは、勉強しては試して、の繰り返しで、自分なりの開発や意思決定のスタイルを模索します。データで培った定量の感覚と、HCDやUXDで培った定性の感覚のバランス、というテーマは、今の僕のプロダクトやプロジェクトのマネジメントスタイルに大きく影響を与えていると思います。

もうそろそろいいんじゃない?という感覚

その後もタイトルのプロデューサーや、新規事業の責任者を任せてもらい、ある程度順調に行っていた社会人5年目。

意思決定、実行ともに、できることはだんだん増えていくものの、どこかに事業を自分ごと化しきれず、多少の他人事感が拭えない感覚

今までも少し感じてはいつつも、少し目をそらしながらやってきたその感覚が次第に大きくなり、それはもう自分でやることでしか解決できないのではないかと思うようになっていきました。

そしてそんな違和感は、経験面でも生まれ、もちろん経験すべきことはまだまだあるけれど、事業的にも、サービス的にも、結構やらせてもらえたし、「この先は、自分でやってみたほうが早いのではないか」という思いが次第に大きくなっていきました。

同期、宇野からの誘い

もちろん一定は会社員として当たり前の感覚という見方もありますが、もともと自分で事業をやりたいと思っていたこともあり、一度生まれたその感覚は日増しに大きくなり、自分で挑戦したいという思いが自分にも周りにも隠せなくなっていきました

そんなとき、今の代表、宇野から飲みに誘われ、起業の話をされます

宇野とは内定者時代から仲がよく、当時からいつか一緒にやろうな、という話はしていましたが、まさかこんな丁度いいタイミングで誘いが来るとは。

ビジョンやサービス内容は具体的には決まっていませんでしたが、宇野以外の2名も含め、一緒にやる奴が信頼できる奴で、プロダクト創るマンとしての1からの力試しが出来る環境があるということだけで、決断するには十分でした。

当時は新規事業の立ち上げの責任者をやっていたこともあり、メンバーに申し訳無さもありましたが、ここで挑戦しなかったら一生後悔すると思い、宇野から誘いを受けた2日後には上司に相談をし、3ヶ月後には会社を辞めていました。

このとき背中を押してくれた人には、今でも感謝でいっぱいです。

そして現在

そこから登記だなんだと、怒涛の日々が始まり、脳汁垂らしながら走り続けて、気づけば創業からはや一年が経とうとしています。

正直、この一年は成功よりも失敗の数のほうが圧倒的に多く、会社として決して順調とはいい難い状況でした。

個人としても、今までやっていたのは、会社という後ろ盾と様々なステークホルダに守られた中でやってきた、事業・サービスづくりごっこだったんだなあと、自分の実力の無さを実感させられる毎日です。

それでも、なんでも話し合える仲間と、ワクワクする未来を描き、そのために乗り越えるべき膨大な数の課題と戦う毎日は、正直楽しくて仕方がないし、この決断をして後悔したことは本当に一度もありません

唯一後悔があるとすれば、なぜもっと早く挑戦してみなかったんだろう、ということくらいです。

何がいいたかったかというと

と、ここまで日記のようにつらつらと書いてきましたが、何が伝えたかったかというと

僕みたいに、捨てるには躊躇するくらいの現状への満足はありつつ、煮えきれない思いをフツフツと持っている人は世の中に沢山いると思います。

僕もそんな一人でしたが、きっかけなんてある日突然やってくるし、えいやと決めたあとは、大変なこと以上に楽しいことのほうが圧倒的に多いから、安心して挑戦してみてほしいということ。

そして僕自身や僕らの会社も、ここまで読んでちょっぴりでも興味を持ってくれた人のきっかけになれたらめちゃくちゃ嬉しいぞ、ということです。

最後に

ここまで読んで少し僕や会社に興味を持ってくれた人へ。

ここには書ききれなかったエピソードや、僕自身の会社や開発への思いやこだわりは山のようにあります。(これもどこかで書けたらいいな)何かの縁だと思って、採用とかそんなの関係なく、気軽にメッセージいただけると嬉しいです。

長文失礼しました!

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